Newsletter No.31   17 July 2001

 

フィンランドの古典音楽

 聞いた話によると、フィンランドの5月1日、メーデーは、労働者の祭典ではないということです。この日は、厳しい冬を過ごしたフィンランドの人たちが、やっと訪れた春を祝うバップペイヴェと呼ばれる一日だとか。オフィスや学校は休みになり、大学生たちが広場や公園に集まっては歌を歌ったりして大騒ぎをする。今年のフィンランドは天候がよく、春が来たことを実感できると、友人たちも口をそろえて言っていました。そして、これからやってくるのは爽やかな夏。しばしの穏やかな気候を迎えるにあたり、春の一日を祝うという気持ちは想像できるような気がします。

 そのフィンランドの夏にくらべると、日本の夏は地獄です。日本に住むアメリカ人しばしばが口にする "sticky" という語がピッタリの 蒸し暑い夏。この単語、“くっつく” から派生した “蒸し暑い” という意味とは別に、口語では “不愉快” という意味でも使われます。まさにそのとおり。特に、わたしの住む広島は、瀬戸の夕凪 −− なんと響きのいい言葉! −− のせいで、夕方から夜にかけて、それはもう “不快” そのもの。海に面した広島近郊に住む北海道出身の某氏など、「夏は死んでいるも同然」と言って、すでにあきらめ顔です。

 エアコン嫌いのわたしにとってつらいのは、オーディオ装置を置いてある部屋の暑さです。幸いにして西日があってサウナ状態ということはないにしても、暑いことには変わりありません。窓を開けても夕凪とあっては風も入ってこず、ごくわずかの空気が入れ換わるにすぎません。

 こういう季節になると、ロマンティックな音楽を聴くことは、ほとんど気乗りがしなくなります。特にドイツ後期ロマン派の管弦楽や、小編成とはいえ、ブラームスの第1番の弦楽六重奏曲などは論外。モーツァルトの後期の交響曲 (特にト短調) ですら、肌にべとつくので敬遠したいところです (考えてみると、1枚もCDをもっていないので、あまり関係ありませんが)。手元にあって一番暑苦しいのは、ヴァーグナーの《ニーベルングの指輪》の全曲 (カール・ベームのバイロイト音楽祭でのライヴ盤だけは、ボリュームをあげて聴くとストレス解消になるので、“里子に出さずに” とってあります)。

 一年中楽しんでいる北欧の音楽の中でも、夏になると聴く回数が特に増えるのはシベリウスの曲と現代の音楽です。シベリウスの第4番や第6番の交響曲は最高 (第7番は、聴くたびに泣けてくるので、夏はやめておきましょう)。《孤独なシュプール (Ett ensamt skidspår)》 や 《森の精 (Skogsrået)》 なども素敵です。現代の作品では、イブ・ネアホルム Ib Nørholm の室内楽曲。この透明感のある響きは、まさに夏向きです (《わたしの冬の朝への前奏曲 (Prelude to My Winter Morning)》 を挙げたりすると、タイトルがミントのシャーベットを連想させそうで、できすぎかもしれませんね)。いずれにしても、夏に聴く音楽は、コテコテしたものは避けるのが賢明でしょう。

 今年の夏、おそらく何度も聴くことになりそうなのが、フィンランドの古典時代の作品ばかりを集めたディスク。Ondine の新譜です (ODE971-2)

 フィンランドの古典時代の作曲家としてもっとも有名なのは、ベルンハード・ヘンリク・クルーセル Bernhard Henrik Crusell (1775-1835) でしょう。3曲ずつ書かれたクラリネット協奏曲とクラリネット四重奏曲、クラリネットと管弦楽のための《序奏とスウェーデンの旋律》は、それぞれ数種類の録音があって親しまれています。オペラ《小さな奴隷娘 (Den lilla slafvinnan)》 −− サルメンハーラは、“歌謡劇” としての性格が強いと言っていますが −− も、爽やかな音楽が楽しめる作品です。

 このクルーセルについては、フィンランドの作曲家と考えるのか、それともスウェーデンとするのかで、いつも困ります。でも、クルーセルが生まれた1775年にはフィンランドはまだスウェーデン領、そして、クルーセル自身、1791年にはストックホルムに移り、彼の作品がすべてスウェーデンで作曲されたことを考えると、スウェーデンの人たちが自国の作曲家だと考えていることが一番自然なのかもしれません。いずれにせよ、1809年にナポレオン戦争のどさくさに紛れてフィンランドがロシアに割譲されるまで、フィンランド出身の作曲家たちについては、どちらの国の作曲家と考えるべきなのか、迷うところです。

 Ondine の新しいディスクで紹介される作曲家たちも、ひとりをのぞいて、必ずしもフィンランドの作曲家とは言えません。しかし、この作曲家たちがフィンランドの古典時代に身を置いて音楽を書き、それがパーシウス Fredrik Pacius (1801-1891)、ミエルク Ernst Mielk (1877-1899)、そしてシベリウスへとつづくフィンランド音楽史の一ページを飾っていることを考えると、少なくとも “フィンランド出身の” という形容をはずすことはできないでしょう。

 18世紀後半のヨーロッパでは、まもなくフランス革命へと導いていく啓蒙思想が強く影響したこともあり、音楽に大きな変化が見られるようになりました。それまで教会や宮廷を中心に発展した音楽が、しだいに市民階級に浸透するようになったこと。これは、音楽が、神への信仰の告白や宮廷文化を彩るものから、人間の精神の尊厳の表現手段にもなりえることが証明されることになる、重要な転換を意味します。そのことは、ベートーヴェンをはじめとするその後の作曲家たちの音楽が示すとおりです。

 スウェーデンでも、事情は同じでした。ちょうどグスタフ三世 (在位 1771-1792) の時代。彼は、スウェーデン政治史の上でも重要な国王のひとりに数えられ、芸術面、とくに音楽と演劇の庇護者としても後世に名を残しています。1771年に王立音楽アカデミーをストックホルムに創設、1773年にはストックホルムの王立劇場を一般に開放し、宮廷管弦楽団による公開の演奏会を行っています。海外からは有能な作曲家や指揮者を招聘し、フランチェスコ・ウッティーニ Francesco Uttini (1723-1795)、ユーセフ・マッティン・クラウス Joseph Martin Kraus (1756-1792)、アベ・ゲオルク・ヨーゼフ・ フォーグラー Abbé Georg Joseph Vogler (1749-1814) ら、“グスタフ時代のスウェーデン音楽” を支えた作曲家たちがスウェーデンに渡ってきたのも、この時期でした(いまでもクリスマスになると歌われるフォーグラーの《フーシアンナ (Hoosianna)》は、音楽学者のファビアン・ダールストレム Fabian Dahlström によると、1795年にストックホルムで作曲され、1797年にはトゥルクで演奏されたということです)。

 そういったスウェーデンの音楽事情はフィンランドにも伝わり、1790年には、フィンランド第1の都市トゥルク (1812年ヘルシンキに移されるまで大公国の首都) にトゥルク演奏協会 (Turun Soitannollinen Seura) が誕生。トゥルクは、フィンランド音楽の中心地して、フィンランドとスウェーデンの音楽家たちの活動の場となっていきます。

 ヴァイオリニストのエーリク・フェルリング Erik Ferling (1733-1808) は、1773年に王立音楽アカデミーの会員に選ばれ、以後1790年まで宮廷管弦楽団の楽士長を務めた人です。ストックホルムで初めて室内楽の公開演奏会を開催し、ヨーゼフ・ハイドンの弦楽四重奏曲などを大衆に紹介しました。このディスクで演奏されているニ長調のヴァイオリン協奏曲は、彼の現存する作品の中ではもっとも重要な曲とされています。トゥルク演奏協会に残っているコピー譜から推測すると、1790年代にはトゥルクで演奏されたらしいとのこと。いずれにしても、ハイドンの協奏曲を思わせる古典的なたたずまいと、独奏ヴァイオリンの華麗な音楽は当時の聴衆を魅了したことでしょう。この録音では、パート譜が欠けている第1ホルンとベースは、ハープシコード奏者のアンシ・マッティラ Anssi Mattila (b.1953) により復元されました。フォルテピアノによる通奏低音は、ロワイエやラモーのハープシコード曲を Alba に録音しているアンナマリ・ポルホ Annamari Pölhö が弾いています。

 1770年、トゥルクにアウロラ協会 (Aurora-seura) という団体が設立されます。ストックホルムのウティレ・ドゥルチ (Utile Dulci) にならって発足、オーケストラを組織することもその目的のひとつでした。1773年と1774年には、協会によるフィンランド初の管弦楽の公開演奏会が開催されますが、協会そのものが長続きせず、私的な協会として残るにとどまります。この協会に1776年に参加したのがエーリク・トゥリンドベリ Erik Tulindberg (1761-1814)。フィンランド生まれの最初の名声ある作曲家と呼ばれ、ヴァイオリンとチェロも演奏したといいます。しかし、音楽活動は余技にすぎず、1784年には公務員としてオウルに。1809年にトゥルクに戻ってきたときには自治政府議会の身分制代表のひとり。その後も財務委員会の議長や郡の財務官として公務員生活を送りました。彼が集めた楽譜の中にはハイドンの弦楽四重奏曲の写しが含まれ、トゥリンドベリの6
曲の弦楽四重奏曲 (カレヴィ・アホ Kalevi Aho (1949-) が第2ヴァイオリン・パートを復元) は、ハイドンの作品を手本にしたと言われています (サルメンハーラ「フィンランドの音楽」)。

 変ロ長調のヴァイオリン協奏曲 (バックカバーとブックレット背の "B major""B flat major" の誤り) も、初期のハイドンの協奏曲を思わせる音楽です。3つの楽章 −− 《アレグロ》、《ロマンツェ・グラツィオーゾ》、《ロンド (テンポ・ディ・メヌエット)》 −− に分かれていて、マンハイム学派の協奏曲を踏襲したものと考えられます。

 トマス・ビューストレム Thomas Byström (1772-1839) は、ヘルシンキの郡長の子として生まれ、タリンで音楽教育、そしてサンクトペテルブルグで士官教育を受けた後、20歳でストックホルムのカールスベリ軍事アカデミーに士官として赴任します。その後は、スウェーデン国王の側近として中佐に昇進。オスカル王子 (1799-1859) −− 後のオスカル一世 (在位 1844-1859)、ブレンドレルの未完のオペラ《武者修行の男リーノ》を完成させたことでも有名 −− のピアノ教師を務めるなど、順風満帆の生活を送っていました。しかし、その後、士官を辞任し、ピアノとオルガンを教えることで生計をたてる道を選びます。

 このディスクでは、ビューストレムの曲は “軽妙な”《カドリーユ (Quadrille)》だけが演奏されています。彼のもっとも重要な作品は、作品1として出版された3つのヴァイオリンソナタ (変ロ長調、ト短調、変ホ長調) とされているだけに、これは残念です。作品1のソナタ集は、楽譜の表紙では "Trois sonates pour le Clavecin ou Pianoforte avec accompangnement d'un violon obligé" (オブリガート・ヴァイオリンつきのクラヴサンまたはピアノフォルテのための3つのソナタ) となっています。しかし、新井淑子と舘野泉による録音があった変ロ長調のソナタ (Finlandia FACD012 (廃盤)) を聴くと、一般的な意味でのヴァイオリンソナタと変わるところはなく、時代を先取りした点が高い評価を得ていることがうなずけます。同じディスクにエーロ・ヘイノネンの演奏で収録されている《ロシアの旋律による変奏曲 (Air Russe variée)(FACD012) では、ほとんどベートーヴェンのピアノ曲と言ってもおかしくないような激情が表現されます。これは、もうロマンティシズムといっていい音楽でしょう。

 もうひとりの作曲家フレードリク・エマヌエル・リタンデル Fredrik Emanuel Lithander (1777-1823) は、牧師の子として生まれ、両親の死後、10人の兄弟のうちフレードリクを含む6人はトゥルクの親戚のところに預けられます。ピアニストになった彼は、トゥルク演奏協会のメンバーとして活躍し、その後は合唱指揮者としても活動しますが、1811年にはサンクトペテルブルグに移り住んでしまいます。このディスクで歌われる2曲のアリアは、演奏協会で行われた記念晩餐会で、弁論法の講師ミカエル・コレーウス Michael Choraeus の記念講演の序と結びのために書かれた伝えられる作品です。ロココ調の演奏会用アリアと言っていいでしょう。コレーウスの書いた詩に曲がつけられています。ちなみに、ストックホルムの叔父に預けられた長兄のカール・ルードヴィーグ Carl Ludvig Lithander (1773-1843) は、将校として任官した後、ピアニスト、そして作曲家として成功を収めました。彼のハ長調のピアノソナタは、フィンランドの古典時代を飾るにふさわしい美しい音楽として、フレードリクの《ハイドンの主題による変奏曲》とともにフィンランド音楽史に残る作品でしょう。

 六階管弦楽団は、時代楽器によるアーリーミュージックの演奏を得意とする音楽家たちが集まって1989年に結成したグループです。シベリウス・アカデミーの6階に集まって演奏することから活動を始めたことから、この名前がつけられました。クフモ、ナーンタリ、トゥルク、ヘルシンキ、ハメーンリンナなどのフェスティヴァルに参加。フィンランド放送が主催した “ロマンティシズム以前の音楽 (Musiikkia ennen romantiikkaa)” フェスティヴァルでも演奏しました。現在は、アンシ・マッティラが芸術監督です。優雅な響きとでもいえばいいのか、かつてのホグウッドと AAM によるモーツァルトの録音のような “(オーバーに言えば) チョークで黒板をひっかくような” 音はまったく聞こえてきません (楽器のまわりに適度な雰囲気を感じさせる好録音のおかげもありそうです)。優雅さと活気にあふれた音楽づくりのバランスの良さが、どれだけ作品の魅力を引き立てていることか。

 指揮者のユッカ・ラウタサロ Jukka Rautasalo (1966-) は、シベリウス・アカデミーのチェロのマスターコースを修了したのち、バロック・チェロとヴィオール、そして指揮法のマスタークラスに参加。ソロイスト、指揮者としての活動を始めたのが1996年。アヴァンティ!室内管弦楽団とフィンランド放送交響楽団でチェロを弾きながら、フィンランド各地で行われるフェスティヴァルにも室内楽奏者として出演しています。

 ヴァイオリニストのクレータ=マリア・ケンタラ Kreeta-Maria Kentala は、カイヤ・サーリケットゥ Kaija Saarikettu (シベリウス・アカデミー) と、ジェニファー・ナットール=ヴォルフとエンドレ・ヴォルフ (ストックホルムのエーズベリ音楽大学) の弟子。バロック・ヴァイオリンは、アムステルダム芸術アカデミーでラインハルト・ゲーベルに師事したほか、モニカ・ユゲットの個人レッスンも受けています。現在は、フリーランスの演奏家として各地の管弦楽団と室内楽や民俗音楽のアンサンブルと共演するなど、多彩な活動を行っています。そのかたわら、西ヘルシンキ音楽学校、ヘルシンキ音楽院、シベリウス・アカデミーでもヴァイオリンを教えているということです。素直なヴァイオリンの音色と、リズム感覚のいい演奏スタイルは多くの人たちから好感を持ってむかえられるのではないかと思います。

 フィンランドのバリトン歌手ヘルマン・ヴァレーン Herman Wallén (1978-) は、16歳で、カールスルーエ音楽アカデミーのローラント・ヘルマンに師事。ハルトムート・ヘルと白井光子のもとでもリートを学んでいます。将来性あるフィンランド人歌手に与えられる、マルッティ・タルヴェラ奨学金を受けるなど、これからの活躍が期待される若手です。端正な歌い方に魅力を感じます。

 “ウィーン古典音楽”にならったフィンランド古典時代の音楽には、いわゆる北欧の響きは感じられません。しかし、これらの作曲家たちの時代からロマンティシズムの時代に移り、やがてシベリウスとその後の20世紀の音楽へという道筋をたどっていくことを考えると、マンハイム学派の音楽を無視できないのと同じように、触れておく価値はないとは言えません。と同時に、同じ古典派の音楽でありながら、これらの作品からどことなく爽やかさが感じられるような気がするのは、けっしてひいき目だけでもないように思いますが、どうでしょう。

(TT)

Ondine ODE971-2 古典時代のフィンランド音楽
エーリク・フェルリング (1733-1808) (* アンッシ・マッティラ 復元) ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 *
 コントルダンス第2番 変ホ長調 * コントルダンス第3番 ロ長調 *  コントルダンス第1番 変ホ長調
 メヌエット第4番 変ホ長調 メヌエット第5番 変ホ長調 * メヌエット第3番 変ホ長調* 
トマス・ビューストレム (1772-1839) カドリーユ (Quadrille)
フレードリク・リタンデル (1777-1823) アリア 「もしもオルフェウスが昔 (Kunde Orphé uti fordna dar)
 アリア 「アウラの岸辺が永遠なりせば (Måtte länge på Auras strand)
エーリク・トゥリンドベリ (1761-1814) ヴァイオリン協奏曲 変ロ長調 作品1
  クレータ=マリア・ケンタラ (ヴァイオリン) ヘルマン・ヴァレーン (バリトン)
  六階管弦楽団 ユッカ・ラウタサロ (指揮)

参考ディスク

Kerava Quartet MACD01&02
エーリク・トゥリンドベリ (1761-1814) (カレヴィ・アホ (1949-) 復元) 弦楽四重奏曲全集
 弦楽四重奏曲第4番 ト長調 弦楽四重奏曲第3番 ハ長調 弦楽四重奏曲第5番 ハ短調
 弦楽四重奏曲第1番 変ロ長調 弦楽四重奏曲第2番 ニ短調 弦楽四重奏曲第6番 ヘ長調
  ケラヴァ四重奏団

 

シベリウスの「クッレルヴォ」

 プールサイドでひとりの女性がトルストイの「戦争と平和」を読んでいる。そこへ男が近づいて声をかけると、女性は、夏が来るたびに新たに読み始めるものの、読み終わったことがないと言う。何だったか忘れましたが、そんな映画の場面がありました。この女性の場合は、ナンパされるのを待つ口実にペーパーバックの文字を眺めていたと考えらるのが自然でしょうが、それはそれとして、長編の文学作品というのは、なかなか最後までたどり着くのが大変なことは確かです。

 わたしの場合、チェーホフか誰かの戯曲を読み始めて、『あなたはそうお考えにはならなくって、アレクセイ・イヴァノヴィッチ』 だったか、そんな一節のところで引っかかって以来、ロシア文学はすっかり縁遠い物なってしまいました。だって、名前が……。そんなわけですから、「戦争と平和」どころではありません。教養のためには読んでおくにこしたことはないと知ってはいますが、一気に読み終えたヘンリー・フィールディングの「トム・ジョーンズ」 (岩波文庫3冊) のように、内容に興味がもてそうだという自信がないので、いつのことになるのやら。

 たしかに、長編は、題材への興味 (そして、時間のゆとり) がないと、なかなか読破できるものではありません。“軽くて面白い” と上巻を読み始めた橋本治の桃尻語訳「枕草子」も、結局、忙しくなったためにそのままになっています。でも、この作品は再チャレンジすることになるでしょう。順次刊行されている 「双調平家物語」 も、テーマがテーマなので、なんとか読んでみたいと思っています。ただ、同じ橋本氏の著書でも、「窯変源氏物語」 だけは、手をつけるかどうか、何とも言えません。だいたい、恋愛物だったら、やること、いや、成り行きはだいたい決まっているので、回りくどいことを繰り返されるのは、気の短いわたしには向きません。どうしても、「好きなら好きだって、さっさと言えよ」と思ってしまうので…… (聞くところでは、光源氏は、いかに慕っているかということを、くどいくらいに言うそうです)。はっきり言って、風流とは無縁のようです (フィールディングの「トム・ジョーンズ」は映画化され (邦題「トム・ジョーンズの華麗な冒険」)、最後には恋人たちが結ばれることになりますが、根っからの恋愛物ではありません。念のため)。

 それはさておき、フィンランドの叙事詩「カレヴァラ」 についても、なかなか最後まで読めなくて、という声を耳にします。森本覚丹の美文調 (講談社学術文庫) のリズムをとるか、小泉保氏の口語訳 (岩波文庫) のわかりやすさをとるか。どちらか自分にあった翻訳を選べば、奇想天外な展開が用意されているので、そんなにとっつきの悪い作品ではないと思います。ただ、対句 −− ひとつのことが表現を変えて二度繰り返される −− の様式の韻文だということと、なんと言っても、長いということが障害になるのかもしれません。ひとつの方法として、ヴァイナモイネンの誕生を歌った第1章から順に読まないで、興味を惹かれるエピソードのところから始めるということも考えられます。もし、シベリウスの音楽がきっかけで読みたくなったとすれば、まずレンミンカイネンの冒険物語かクッレルヴォの悲劇から始めて、文体に慣れてから一気に最初からというのはどうでしょうか。その際には、一日一章というペースくらいを考えておくほうがいいかもしれません。ぜひ、チャレンジを。それだけの価値は、きっとあります。

 レンミンカイネンの物語は、シベリウスの交響詩《レンミンカイネン組曲》、ウーノ・クラミの《レンミンカイネンの島の冒険》、アーレ・メリカントの交響詩《レンミンカイネン》など、有名な作品だけでも3つの曲が書かれています。この3曲のどれもが、“カッコいい” 音楽になっているのは、眉目秀麗な若者が自分の軽率な行動のために波乱にみちた冒険の旅に出ていくという、管弦楽で描くにはもってこいの題材とあれば、当然でしょう。

 クッレルヴォのほうは、レンミンカイネン以上に多くの音楽作品にとりあげられています。フィリップ・フォン・シャンツ Filip von Schantz (1835-1865) の (オペラとなるはずだった)
《クッレルヴォ序曲》 (1860)、ロベルト・カヤヌス Robert Kajanus (1856-1933) の《クッレルヴォ葬送行進曲》 (1880)、シベリウスの交響詩 《クッレルヴォ》 (クッレルヴォ交響曲) (1891-92)、レーヴィ・マデトヤ Leevi Madetoja (1887-1947) の交響詩《クッレルヴォ》 (1913)、トイヴォ・クーラ Toivo Kuula (1883-1918) の《クッレルヴォの歌》 (1909)、アルマス・ラウニス Armas Launis (1884-1959) のオペラ《クッレルヴォ》 (1917)、アウリス・サッリネン Aulis Sallinen (b.1935) のオペラ《クッレルヴォ》 (1986-88)。代表的な作品だけでもこれだけあります。

 詩人ヴァイナモイネン、鍛冶イルマリネン、冒険者レンミンカイネンの3人が 「カレヴァラ」 のあちらこちらのエピソードに絡むのに対して、クッレルヴォは、第31章から第36章に登場するだけです。しかし、この6章だけでクッレルヴォの物語は完結し、その悲劇が「カレヴァラ」を通じてもっとも印象に残るエピソードだということ、そして、背景となるフィンランドの自然が音楽の彩りにふさわしい素材となることを考えると、フィンランドの作曲家たちが、こぞってクッレルヴォをテーマにした作品を作るのも当然でしょう。

 これらの作品の中で上演の機会や録音がもっとも多く、ひろく親しまれているのは、言うまでもなくシベリウスの曲です。現在では、シベリウス若き日の代表作のひとつとされています。いろいろな資料によると、シベリウスが作曲に着手したのは、ウィーン留学中の1891年春のことのようです。同年6月にシベリウスは帰国。翌1892年にまたがって作曲がつづけられ、4月になって全曲が完成しています。初演は、1892年4月28日、ヘルシンキ大学の大ホールでシベリウス自身が指揮をとりました。このコンサートは大成功をおさめ、楽章が終わるごとに熱烈な拍手が送られたと伝えられています。新聞評でも、「わが国民的叙事詩のもっとも美しい精華を眼前にくりひろげ、即座にわれわれのものとわかるフィンランドの旋律でわれわれの耳をなでてくれた……まさに、これこそこれまでに聞いたことのなかった音楽。シベリウス氏こそ間違いなくフィンランド音楽の未来」 とまで讃えられ、翌1893年の春にかけて幾度となく演奏されました。

 しかし、まもなくシベリウスは、この曲の演奏を禁止します。その理由については諸説がありますが、この若書きの作品に対してシベリウスが強い思い入れをもっており、この作品の表す “フィンランド魂” が理解されそうにない時代に国外で演奏されることを嫌った、という意見がもっとも可能性として高いと言われています。完成度の高い一連の管弦楽作品を書いたシベリウスに対して友人アクセル・カルペラーン男爵らから作品の改訂についての勧めがあり、時間的なゆとりもあったにもかかわらず断り続けたことも、それを裏付けると考えられないでしょうか。

 《クッレルヴォ》 が完全な形で再演されるのは、作曲者の死から一年たった1958年6月12日。この日は招待客だけの公演でしたが、翌日、シベリウス週間のコンサートのひとつとして公開で演奏されています。ヘルシンキ・フィルハーモニックをシベリウスの娘婿ユッシ・ヤラス Jussi Jalas (1908-1987) が指揮しました。

 1966年にはブライトコプフ&ヘルテル社 (ドイツ) がスコアを出版。1971年に、パーヴォ・ベリルンド (ベルグルンド) Paavo Berglund (b.1929) がボーンマス交響楽団を指揮した初の全曲録音も行われます。1974年10月22日、東京都交響楽団の第68回定期演奏会では渡邉暁雄指揮による日本初演も行われました。勝本章子と栗林義信の独唱、「甍」男声合唱団 (関谷晋指揮) というメンバーです。歌詞は、大束省三さんの手になる訳詞が使われました。

 《クッレルヴォ》 (作品7) は、さまざまに指摘されているように、後のシベリウスの作品にくらべるとかなり荒削りな音楽です(同じ年に書かれた《ある伝説 (En Saga)》 (作品9) の原典版についても同様なことが言えるので、この曲の初稿と1903年の改訂版 −− 交響曲第2番の初演が1902年 −− を比較すると、シベリウスの音楽がいかに密度の濃いものに変化していったかが理解できます)。それと同時に、《クッレルヴォ》は、26歳のシベリウスだから書けた音楽との指摘もあります。そこのところが、いったん演奏が解禁されるなり、コンサート上演や録音を通じてたくさんのファンを獲得することができた理由ではないでしょうか。なにかに憑かれたように、一貫した流れに乗って書かれた作品、と言ってもオーバーではないような気がします。

 もうひとつ、この作品のおもしろいところは、録音された演奏を聴いたかぎりでは、シベリウスの交響曲や他の管弦楽曲と違って、“まったくのはずれ” という演奏がないことです。大曲だけに、かなりの準備をした上で演奏するということもあるでしょうが、荒削りな分、音楽のもつ推進力に引っ張られるだけでも一応の形ができてしまうということもあるのではないでしょうか。しかも、音楽のそこかしこに雑多な要素があるので、どこに視点を置くかによって、いろいろと独自の解釈ができるということもありそうです。オスモ・ヴァンスカとラハティ交響楽団による録音がリリースされたのを機会に手元のディスクを聴き直してみて、その感を深くしました。

 交響詩《クッレルヴォ》は、全部で5つの楽章に分かれます。第1楽章《導入部》、第2楽章《クッレルヴォの青春》、第3楽章《クッレルヴォとその妹》、第4楽章《戦いに赴くクッレルヴォ》、第5楽章《クッレルヴォの死》。第3楽章は、メッツォソプラノ(あるいはソプラノ)とバリトン独唱に加えて、(ギリシャ悲劇のコロスのように)情景を語る男声合唱が大きな役割を担います。ふたたび終楽章に現れる男声合唱は、この作品の幕切れの悲劇をいっそう強調する存在として使われます。この合唱について、シベリウスは混声にするか男声にするかで迷ったと伝えられます。もし女声が混じっていたら、「カレヴァラ」の原始の世界が、かなり変わったものになっていたはずです。

 《クッレルヴォ》は “クッレルヴォ交響曲” と呼ばれることもあります。これは意見の分かれるところです (中には、《クッレルヴォ》だけでなく、《レンミンカイネン組曲》と《タピオラ》も交響曲に数えるべきだという極端な意見もありますが)。“交響詩” とするほうがいいという意見の根拠として、初演の予告のなかに “独唱者、男声合唱と管弦楽のための交響詩” としたものがあったこと、合唱のテクストに “交響詩《クッレルヴォ》” と記されていること、出版されているスコアでも “交響詩” とされていることなどが挙げられます。しかし、シベリウス自身は作曲中もその後も “交響曲” と呼んだといわれ、また、オリジナル・スコアに “交響詩” と書いてないことを考えると、何とも言えません。シベリウス自身が公式な考えを表明してくれていれば、話は複雑にならなかたのでしょうが、おおかたの見方では、「カレヴァラ」から題材をとった作品の標題音楽的な性格と、《クッレルヴォとその妹》の“オペラ風の”見かけのせいで、シベリウスは交響曲と呼ぶことをためらったのではないかということになっています。このことについては、今後も議論がつづくことでしょう。

 ただ、(BIS のブクレットで) アンドリュー・バーネット Andrew Barnett が紹介したカール・フローディン Karl Flodin の批評の一節 (「シベリウスは、彼自身の声を確立した……そして、その声により、われわれ自身の音楽のうちに彼自身の音楽を創りあげている」) に示されているように、この曲がフィンランド文化の神髄に触れた音楽だという事実さえあれば、交響曲かどうかにこだわる特別な意味はないと考えてもいいように思います。

 《クッレルヴォ》は、日本でもすっかり有名になりましたが、簡単にあらすじを紹介しておきます。

 クッレルヴォは、一部族の長カレルヴォの子です。母がクッレルヴォを身ごもっているころ、カレルヴォの弟のウンタモが館を攻撃。クッレルヴォの母をのぞき、一族は皆殺しにされてしまいます。カレルヴォの妻はウンタモ一族のところに連れて行かれ、そこでクッレルヴォを生みます。ウンタモの仕打ちを知ったクッレルヴォは、ゆりかごの中にいる時から、復讐することを考え始めます。そのことをウンタモが知り、クッレルヴォを殺そうとしますが、うまく行きません。成長したクッレルヴォは、ウンタモが与える仕事をすべてしくじり、怒ったウンタモは、彼を鍛冶のイルマリネンに奴隷として売り払ってしまいます。

 羊飼いにされたクッレルヴォは、イルマリネンの妻が作ってくれたパン(焼き菓子)−− 実は石を焼いたもの −− をもって家畜を連れて牧場へ。形見として残された小刀でパンを切ろうとすると小刀は折れ、クッレルヴォは激しく泣きます。イルマリネンの妻の仕業に怒ったクッレルヴォは、家畜を沼地に追放。家畜を追って集まってきたオオカミや熊を集めると、その動物たちを家に連れ帰り、乳搾りに出ていたイルマリネンの妻を殺させてしまいます。イルマリネンの家から逃げたクッレルヴォは、森のなかをうろついていたところで、ひとりの女と出会います。そして、彼女の口から、殺されたとばかり思っていた父、弟、妹が生きていると告げられ、家族の元へ。そこで父と弟、そして母とも再会したものの、妹だけは森に苺を摘みに出たまま行方不明だと知らされます。

 ある日クレッルヴォは、地租を払うために、橇を駆って出かけます。その帰路、出会った乙女ふたりに拒絶されたクッレルヴォは、三人目の娘を強引に橇の中へ。宝物を見せられた娘は、クッレルヴォの誘惑に負けてしまいます。そして、娘の身の上話を聞くうちに、その娘が森に出かけたまま戻らなかった妹だと分かります。そのことを知った娘は、橇から飛び出すと、急流に身を投げて死んでしまいます。

 家に帰ったクッレルヴォは、母に事の次第を告げ、自らも命を絶とうとしますが、母に諭されて自殺を思いとどまり、叔父のウンタモに復讐するための戦さに出かけていきます。ウンタモが支配する地方を殲滅したクッレルヴォが故郷にもどると、彼の家は荒廃し、家族の姿もありません。残っていたのは一匹の黒犬だけ。犬を連れたクッレルヴォは森に入っていき、気がつくと、そこはかつて妹と会った場所。後悔の念にとらわれたクッレルヴォは、地面に立てた剣で身を貫き、果ててしまいます。

 (サッリネンのオペラでは、劇作家アレクシス・キヴィ Aleskis Kivi (1834-72) の劇の構成を基に作曲者自身が台本を書いており、物語は、「カレヴァラ」の内容といくつかの部分で異なります。幼なじみの友キンモが重要な役で登場し、物語の最後、クッレルヴォは剣で自決せず、火の中に身を投じます。)

 さきほど、日本初演が大束省三さんの訳詞により行われたことに触れました。北欧合唱団の主宰でもあり、経験の豊かな大束省三さんにとって、曲と詩が切り離せない関係にあることはゆるがせにできない事実です。そのことは、大束さんの著書、「北欧音楽入門」 にも書いてあります。独唱曲、合唱曲を問わず原語上演が本来の姿と考えながらも、訳詞を作らなければならない……。その話があったときには、ずいぶんと迷ったということを述懐なさっています。

 しかし、「フィンランドの人々にこよなく愛されているこの悲劇的な物語のすじが、演奏と同時進行的に聴衆に理解されるように」 との渡邉暁雄氏の強い要望に応えて、結局、“歌うための” 訳詞を作る作業を引き受けることに。その結果できあがった訳詞は、大束省三さんにとっては、かけがえのない思い出。今回、大束省三さんに、その訳詞を紹介させていただくことをお願いしたところ、快く許可してくださいました。美しい訳詞に敬意を表するとともに、大束省三さんに心から感謝します。

 
第3楽章 《クッレルヴォとその妹》

合唱
 クッレルヴォ カレルヴォの子は
 青き靴下をはき
 髪は黄金色 (こがねいろ)
 みごとな革靴
 身につけ 租税を
 払いに出かけぬ
 
 地租と租税をば
 払いおえしとき
 橇にうちのりて
 家路をさしぬ
 橇にうちのりて
 故郷 (ふるさと) をめざす

 橇はさわがしく
 旅路をひた走りぬ
 ヴァイノの荒野 (あれの) を
 過 (よ) ぎりて進みぬ

 乙女に出逢いぬ
 髪は黄金色 (こがねいろ)
 そはヴァイノの荒野 (あれの) を
 過 (よ) ぎり馳せしとき

 クッレルヴォ カレルヴォの子は
 橇をすぐ止めて
 乙女にさし向き
 甘き言葉をかけぬ

クッレルヴォ
「橇には毛皮も
 いざ乗りたまえよ」

乙女 (その1)
「橇には死人 (しびと) を
 毛皮に病を」


合唱
 クッレルヴォ カレルヴォの子は
 青き靴下はき
 馬に鞭当てぬ
 玉飾りの鞭
 馬はいななき
 ひた走りぬ 家路さし

 乙女に出逢いぬ
 革の靴はきて
 凍(い)てし湖を
 過(よ)ぎりてありたり

 クッレルヴォ カレルヴォの子は
 橇をすぐ止めて
 すぐ口を開き
 強く呼びかけぬ

クッレルヴォ
「乗り給え橇に
 うるわしき人よ」

乙女 (その2)
「橇に死神を
 死神こそ橇に」

合唱
 クッレルヴォ カレルヴォの子は
 青き靴下はき
 馬に鞭当てぬ
 玉飾りの鞭
 馬はいななき
 ひた走りぬ 家路さし

 乙女に出逢いぬ
 錫の飾りさし
 ポホヤの荒野 (あれの) に
 歌いてありき

 クッレルヴォ カレルヴォの子は
 橇をすぐ止めて
 口をすぐ開き
 激しく呼びかけぬ

クッレルヴォ
「橇に乗り給え
 毛皮にくるまれて
 甘き林檎と
 くるみ食べ給え」


「おお おぞましきこと
 唾吐きかけよ
 冷たき毛皮よ
 不吉の橇よ」

合唱
 クッレルヴォ カレルヴォの子は
 青き靴下はき
 乙女を攫 (さら) いぬ
 橇に掴み上げ
 毛皮の上におさえ
 くるめこみぬ


「手込めにせんとは
 猥らな思いを
 ただちに忘れて
 橇から去らせよ
 さなくば大地に
 身を投げ 橇もろともに
 千々に砕けて
 果てなむ」


合唱
 クッレルヴォ カレルヴォの子は
 青き靴下はき
 皮作りの箱
 絵のある蓋あけ
 乙女に見せぬ
 なべて銀 布地
 金刺繍の靴下
 銀の飾り帯
 まばゆい布地に
 黄金 (こがね) に銀 (しろがね)
 あわれや乙女は
 惑わされにけり


「御身の血筋を
 いざ聞かせ給え
 大いなる家系
 誉れある家族」

クッレルヴォ
「否 大きからず
 さりとて小さからず
 中頃の家の子
 カレルヴォの幸なき子
 愚かな鈍き者
 値打軽き者

 いざ語れそなた
 そなたの血筋を
 大いなる家柄
 誉れ高き人の子」


「否 大きからず
 さりとて小さからず
 中頃の家の子
 カレルヴォの幸なき子
 愚かな鈍き娘
 値打軽き娘

 やさし母のもと
 幼なかりし頃
 森にいちごをば
 ひとり摘みに出でぬ
 野原に苺摘み
 木陰に木苺摘み

 昼摘み 夜休み
 一日 (ひとひ) 二日 (ふたひ) 摘み
 三日目も苺摘み
 帰り路 (みち) 見失い
 森にさ迷いて
 森を出でられず

 ひとり泣き泣き
 一日 (ひとひ) 泣き 二日 (ふたひ) 泣き
 三日目も泣き泣き
 或る山の上
 峰に登りぬ
 ひとり叫べば
 森は答えて
 荒野 (あれの) はこだま

 『叫び声立つるな
  誰も聞く者居らず
  絶えて家は無し』

 やがて三日目 四日目に
 さらに五日 六日
 遂には身をば
 投げんと試みし
 されど死せざりき
 亡び果てざりき

 幸なき此の身の
 かの日死してあらば
 二年 (ふたとせ) 過ぎてのち
 三年目 (みとせめ) の夏に
 草の穂となりて
 小さき花咲かせ
 地に這う苔桃 (こけもも) や
 野に苺となり
 この不幸せに
 遇 (あ) わざりしものを」

クッレルヴォ
「悲しや此の身の
 穢れし命よ
 わが母の娘
 わが妹とは
 わが父 わが母
 悲しや父母 (ちちはは)
 なぜわれを生みし
 なぜに育てしや
 
 生み育てられざりせば
 よかりしものを
 大気吸わざりせば
 よかりしものを
 死の手の なぜに
 赤子のままに
 命奪わざりし
 幸なき此の身よ」

第5楽章 《クッレルヴォの死》

合唱
 クッレルヴォ カレルヴォの子は
 黒き犬連れて
 森にわけ入りぬ
 深き森の中

 さまよい歩きて
 しばしさまよいて
 開けし野にいたり
 乙女を奪いし
 忌わしき所を
 見出して立ちぬ

 草は悲しみに
 うなだれてありぬ
 若草は歎きて
 小さき花もまた泣きたり
 亡びし
 乙女を歎きて
 若草もえ出でず
 小さき花咲かず
 荒れ果ててありき
 忌わしき所
 母の娘犯せし
 呪われし所

 クッレルヴォ カレルヴォの子は
 剣 (つるぎ) 抜き放ち
 鋭き刃 (やいば) を
 見つめ 問いかけぬ

 剣 (つるぎ) に問いかけぬ
 『われを危 (あや) めんや
  鋭き刃 (やいば) よ
  罪深きわれを』

 剣 (つるぎ) は男子 (おのこ) の
 心をば知りぬ
 剣 (つるぎ) は答えたり
  『汝 (な) が望むままに
   汝 (な) が肉を食 (は) まん
   穢れし血吸わん
   罪犯せし者
   危 (あや) むるはさだめ』

 クッレルヴォ カレルヴォの子は
 青き靴下はき
 荒地 (あれち) に柄 (つか) 立て
 荒野 (あれの) に柄 (え) を当て
 切っ先を胸に当て
 刃 (やいば) に身を投げ
 死を求めしかば
 死 はや訪れぬ

 若者は亡びぬ
 クッレルヴォは果てぬ
 丈夫 (ますらお) は逝きぬ
 幸なき子果てぬ

   (訳詞 大束省三)

 大束省三さんは、第5楽章、合唱が始まってまもなく、2小節だけ和音が現れ、そのあと「草は悲しみに/うなだれてありぬ/若草は歎きて/小さき花もまた泣きたり…‥」と歌うところで、訳しながら感動を抑えることができなかったと述懐なさっています。『なぜシベリウスは、あんなにも長々と印象に残るユニゾンを続けたのか、あそこまで行って遂に美しいハーモニーがきこえてくる』 (日本シベリウス協会CDの解説書から)。この美しい音楽は、シベリウスの《クッレルヴォ》を初めて耳にしたフィンランドの人々の心をもっとも強くとらえた場面のひとつに違いないと思います。

 《クッレルヴォ》には、現在、私的にリリースされたものをのぞいて10種の録音があります。先に触れたとおり、パーヴォ・ベリルンドがボーンマス交響楽団を指揮して初めて全曲録音が行われたのが1971年。この録音は、最近CD化されました (EMI Classics CZS5 74200-2)。それにつづくのがベリルンドによる1985年のデジタルによる再録音。YL (ヘルシンキ大学合唱団) は同じですが、さらにエストニア国立男声合唱団が加わり、オーケストラがヘルシンキ・フィルハーモニック管弦楽団に変わりました (EMI Classics CDM5 65080-2 廃盤)。いずれも、シベリウスの音楽のもつ叙事的側面と抒情的側面のバランスのとれた堂々とした演奏は、発表当時から高く評価されています。

 この2種の録音については、基本的な解釈の点では大きな違いないものの、新録音のほうがベリルンドの意図がより徹底しているというのが、大かたの意見です。新録音が初めてLPでリリースされた際の Gramophone 誌のロバート・レイトン Robert Layton の批評でも、新録音の “はるかにしっかりと抒情性を打ち出したフレージング” と “細部の処理の想像力の豊かさ” の2点が特に指摘されています。シベリウスの語法を承知しているフィンランドのオーケストラと、指揮者に語法を教え込まれたイギリスのオーケストラの違い。《クッレルヴォ》に対するベリルンド自身の理解の深まり。そして、クッレルヴォを歌うバリトンが新録音でヨルマ・ヒュンニネン Jorma Hynninen (b.1941) に変わったということも、無視できないでしょう (ヒュンニネンは、この録音を皮切りに、“無比のクッレルヴォ” として、《クッレルヴォ》の録音に4度も加わっています)。ベリルンドの演奏は、《クッレルヴォ》のスタンダードのひとつとして、多くの人たちから愛されています。

 ベリルンドの次に現れたのが、ネーメ・ヤルヴィ Neeme Järvi (b.1937) の録音 (BIS CD313) です。このディスクの最大の魅力は、ヨーテボリ交響楽団という、技術水準が高いことはもちろん、響きに独特の味のあるオーケストラ、そしてオーケストラ (とりわけ金管楽器群) を臨場感いっぱいにとらえた BIS の素晴らしい録音でしょう。カリタ・マッティラ Karita Mattila (b.1960)、ヒュンニネン、ラウルン・ユスタヴァト (歌の友) 男声合唱団という声楽陣をそろえた第3楽章の緊張したドラマも、印象に残ります。好みが分かれるとすれば、ヤルヴィの速いテンポでしょうか。下手をするとオーバーともとられかねない強いアクセントのつけ方も、(録音のダイナミックレンジが広いだけに) 気になるかもしれません。でも、マッティラとヒュンニネンの歌を聴きたくて、取り出す機会の多いディスクです。

 エサ=ペッカ・サロネン Esa-Pekka Salonen (b.1958) とロサンジェルス・フィルハーモニックによる演奏 (Sony Classical SK52563) が録音されたのは1992年。第1楽章のきびきびとしたテンポは、1958年のユッシ・ヤラスの演奏を聴いたロバート・レイトンによると、ヤラスの時とほとんど同じではないかということです。この演奏のすごいところは、シベリウスの音楽のあちらこちらにある (指揮者にとっての) 誘惑に気を取られることなく、ひたすら音楽を進めていることでしょう。ロバート・レイトンに “(聴き手を) 興奮させるというより (指揮者が) 興奮している (excitable than exciting)” と言われた《レンミンカイネン組曲》の録音と違い、迫力のある音楽づくりにもかかわらず、強引さは感じられません。

 サロネンが立て直したとされるオーケストラも、評判どおりの実力を発揮しています。ただ、第3楽章のオープニングと、(おそらく) 第4楽章全体を通じてひとつ気になることがあります。サロネンの演奏で聴くと、“橇に乗って荒れ野を走る” という情景が浮かんでこず、ただ疾走する音楽があるだけ。あえて連想することと言えば、“オーストラリアの荒廃した平地をスーパーカーで疾走するマッド・マックス” というイメージです。それでふと気づいたのは、サロネンが、この曲を標題音楽ではなく絶対音楽 −− それこそ、マーラーの第2番《復活》と同じような交響曲 −− と考えて演奏したのではないかということです。いずれにせよ、この有能な指揮者の長所がストレートに出た引き締まった音楽だと思います (あまりに調子よく音楽が運ばれるので、正直なところ、ちょっと落ち着かない気はしますが)。Sony の録音は、明快な音だということはいいにしても、オーディオ装置によっては雰囲気に欠けて聞こえることがあります (わたしの装置では、Sony 録音は音がむき出しになりがちです。BISOndine といった北欧系のレーベルの (音をとりまく “空気” を一緒にとらえた) 録音にあわせて、透明な響きのする音にしているせいでしょう)。

 ライフ・セーゲルスタム Leif Segerstam (b.1944) とデンマーク国立放送交響楽団の録音 (Chandos CHAN9393) は、このコンビによるの交響曲全曲録音にあわせて企画された1枚です。このシリーズの交響曲と管弦楽曲の一部の演奏については、極端に遅いテンポや効果をあげるための “演出” に異論もありましたが、《クッレルヴォ》 は、おおむね高い評価を受けています。音楽に無理をさせない的確なテンポ設定、単刀直入なドラマ。第3楽章がセーゲルスタムとしては意外に −− ごめんなさい!−− オペラティックな演奏になっていないのは、ソイレ・イソコスキ Soile Isokoski (b.1957) とライモ・ラウッカ Raimo Laukka (b.1954) の誇張のない歌い方も与っているのでしょうか。欲を言うと、合唱が、悪くはないにしても (サロネンの YL のように)、さらに焦点のしっかりしたものになっていれば、というところはあります。でも、オーケストラの熱演が充分にそれをカバーしているように思います。

 ロバート・レイトンが、「これまでのライヴァルの誰よりも《クッレルヴォ》に肉薄している」と書き、若き日のシベリウスの精神を正しく生かした演奏として賛辞を送ったのが、フィンランド放送交響楽団を指揮したユッカ=ペッカ・サラステ Jukka-Pekka Saraste (b.1956) の録音です (Finlandia 0630-14906-2, 3984-21348-2 1996年録音)。オープニングからパワー全開の元気の良さ。しかも、音楽の推進力を得るために演奏のポイントをしっかり押さえているということは、見逃せないところです。たとえば、第3楽章のオープニング。弦楽器群の強弱とフレージングに微妙な変化がつけられており、その変化が音楽の慣性を生み出しています。単なる勢いだけだと、音楽はもっと粗っぽくなっていたでしょう。
フィンランド放送のオーケストラの力量とサラステの音楽が幸せな出会いとなっています (この箇所、サロネンのロサンジェルス・フィルハーモニックの演奏は、やや機械的に聞こえます)。

 この演奏、全体として叙事の面にウエイトが置かれているように聞こえるかもしれませんが、抒情も忘れられてはいません。叙事と抒情のバランスをとる上で大きな役割を果たしているのが、作曲家でもあるタパニ・ランシオ Tapani Länsiö (b.1953) が合唱指揮をするポリテク合唱団です。“コロス” という存在に徹して物語とその背景を語るこの男声合唱にくらべると、サロネンの YL ですら平板に聞こえます。モニカ・グループ Monica Groop (b.1958) と、声の若々しさはやや失われたもののヒュンニネンのクッレルヴォは、やはり見事です。このディスクで、やや残念なのは Finlandia の録音。広がりは充分ですが、もう少し奥行感が欲しいところです。そうは言っても、のびやかで人間らしい温もりのあるこの演奏を味わうには、なんら問題はありません。

 つぎは、サロネン、セーゲルスタム、サラステの師、ヨルマ・パヌラ Jorma Panula (b.1930) とトゥルク・フィルハーモニック管弦楽団による録音 (Naxos 8.553756)。シベリウスの音楽の中にしっかりと入り込みながらも、きわめて醒めた演奏を行っています。実直そのものと言いましょうか。また、これまでの録音のなかでは、もっとも《クッレルヴォ》の土俗的な香りの感じられる演奏でもあります。第1楽章と第4楽章では、さらに聴き手を興奮させるような勢いがあってもいいのでしょうが、パヌラは、そんなことにはお構いなしに、シベリウスが書いた楽譜をきちんとした音楽にまとめあげることに没頭しているかのように聞こえます。この演奏は、ライヴで聴いたら、その面白さがもっと感じられるのかもしれません (1995年夏、パヌラが指揮科の教授を務めるシベリウス・アカデミーの交響楽団が《クッレルヴォ》をもってヨーロッパ・ツアーを行い −− 指揮は、エリ・クラス Eri Klas (b.1939) −− 非常な好評を博したといいます。うらやましいことです)。独唱者のヨハンナ・ルサネン Johanna Rusanen (b.1971) とエサ・ルートゥネン Esa Ruuttunen (b.1950) も立派。ラウルン・ユスタヴァト (歌の友) 男声合唱団は、ネーメ・ヤルヴィの録音に参加したころの方がレベルが高かったのではないでしょうか。Naxos の録音は、音量レベルがやや低いので、ボリュームを上げ目にしたほうがいいと思います。

 パーヴォ・ヤルヴィ Paavo Järvi (b.1962) と王立ストックホルム・フィルハーモニック管弦楽団の演奏 (Virgin Classics VC5 45292-2) は、わたしは聴いていないので、Gramophone のロバート・レイトンによる批評を参考にするしかありません。音楽の見事な性格づけ、適切な判断によるテンポ、入念なフレージング、しっかりと反応するオーケストラ、暗い響きの合唱。ゆったりとした第1楽章もドラマティックな盛り上がりには事欠かず、第3楽章の音楽の流れと劇的な推進力も立派。レイトンが苦言を呈しているのは、“もう少し音楽を動かしてもいいのではないか” という第2楽章、そして終楽章です。通常、演奏時間10分を切る終楽章に、パーヴォ・ヤルヴィは、ほぼ15分もかけており、“強い印象を与えるには違いないとしても、大仰な表現と感じる人が多いだろう” という結果になっているということです。

 サー・コリン・デイヴィスとロンドン交響楽団は、1992年にロンドンのバービカン・センターで《クッレルヴォ》の公演を行っています。そのライヴに接したイギリス人のたちの語り草になっており、このコンビによる録音 (RCA Victor 09026-68312-2) は、実現が待たれていました。ロバート・レイトンも録音を待ちわびていたひとり。しかし、さすがのレイトンも、「コンサートホールでうまくいくことも、自宅で一対一で向き合った場合、同じ印象を残すとはかぎらない」 と正直に言わざるを得なかったようです。やはりライヴと録音とでは、くらべるのが無理というものなのでしょう。でも、きわめて演奏能力の高いロンドン交響楽団 (LSO) は、洗練された響きと熱意ある演奏でサー・コリンの棒に応え、ロンドンの合唱団も、指揮者の求めに充分に応じています。合唱団がフィンランドやエストニアのグループほど深い響きの低音を持ち合わせていないことは、この演奏ではマイナスの要素にはなっていません。ヒレヴィ・マッティンペルト Hillevi Martinpelto (b.1958) とカール=マグヌス・フレードリクソン Karl-Magnus Fredriksson (b.1968) のふたりの独唱者についても同じことがあてはまります。サー・コリン・デイヴィスがめざしたことは、“フィンランド性” をぬきにしても、《クッレルヴォ》が偉大な作品だということを毅然と実証してみせることだったと考えると、すべてが納得いくでしょう。Gramophone の批評の中でレイトンも、「(第1楽章は) 雄大で広がりがあり、この曲のブルックナー的な雰囲気が強調される。《クッレルヴォ》の構想が浮かんだウィーン時代、シベリウスは、ブルックナーの第3交響曲から強い印象を受けていた」 と述べています。サー・コリンが聞かせるのは、まさにそんな音楽です。内声部を磨き、低弦をはじめとする低音部で音楽をしっかりと支える。(交響曲の演奏と同様に) サー・コリンの洗練された音楽は、《クッレルヴォ》演奏のひとつの在り方を示した成功作だと思います。

 そして最後が、オスモ・ヴァンスカ Osmo Vänskä (b.1953) とラハティ交響楽団による最新録音です (BIS CD1215)。2000年9月28日から30日にかけて、ラハティのシベリウスホール Sibelius-talo で録音されました。素晴らしいのがこの録音の音質。演奏が始まったとたん、決して大編成の団体ではないラハティのオーケストラが、ゆったりと左右と前後に広がるのには、思わず鳥肌が立ちました。これまでの録音会場だった聖十字架教会でも録音も、決して悪いものではなく、優秀な録音の多い BIS のディスクのなかでも際だっていましたが、新しいホールでの録音のゆったりとした響きは、これは格別です。いつもながらのヴァンスカの緻密な演奏の細部が手に取るようにわかり、全奏の音楽でも、音が飽和してしまうということがありません。これまでは、強奏の部分で、それぞれの奏者の耳にかなりの負担がかかっていたようですが、木造のホールの木が反響音を適度に吸収してくれるらしく、もう心配はいりません。テューバ奏者のハッリ・リドスレは、「これで、50歳まで聴力の心配をしないですむ」 とさえ言っています。

 この録音の良さは、演奏に大きな影響を与えないではおきません。代表的な例が、第3楽章の男声合唱。ステージのやや奥まったところから聞こえてくる、暗い音色の抑えた歌唱は、まさに “コロス” です。この楽章で合唱が主役になると、ドラマの内容を考えた場合、どうしても違和感を覚えますが、この遠近感は理想的と言ってもいいのではないでしょうか。YL も、以前よりずっと緻密で、必要とあれば(声を張り上げることなく)力強く、しっかりとした演奏ぶりです。シベリウスがルーノ (フィンランドの詩歌) 歌手のラリン・パラスケ Larin Paraske の歌を聴いて身につけたといわれる、4分の5拍子の合唱も、この YL の歌では、まるで「カレヴァラ」の原始の響きに聞こえてきます。

 管弦楽も見事です。第2楽章、ヴァンスカは他の指揮者よりも遅いテンポをとっています (サラステ 14分18秒、ヴァンスカ 19分18秒)。当然、外声部だけでなく内声部まで精細を極める演奏になり、音色を響きにも特別な注意が払われた結果、《クッレルヴォの青春》 は、深い悲劇性をおびて語られることになります。似たようなことは、第4楽章《戦いに赴くクッレルヴォ》 についても言えます。テンポこそ他の指揮者とそれほど変わりませんが、シベリウスのオーケストレーションの意味するところを精密に読みとり、それを深みのある音楽に構築していきます。そのために、“一族の復讐への戦い” という意味合いがくっきりと浮かびあがってきて、単なるスケルツォに終わっていません。そして、この楽章の最後のところでは、これまでに聴いたことのない響きが聞こえてきます。金管楽器の咆吼にトライアングルが絡むところ。《クッレルヴォの死》 へ向けての、不吉な予兆と聞こえるような気がします。この録音にあたっては、手稿譜を参考にして、スコアの小さな誤りがかなり訂正されたといいます。あるいは、ここもそのひとつかもしれません。ちなみに、現在、プライトコプフ&ヘルテル社からは、手稿譜を基本に編集した、いわゆる原典研究版によるシベリウス全集が順次刊行されています。一般にも入手できるので、このあたりのことは、ぜひ確認したいところです。

 終楽章は、ヴァンスカとラハティの演奏の頂点です。「カレヴァラ」の神秘の世界を象徴するように響くオープニングから、自刃して果てるクッレルヴォへの哀歌まで。注目すべきは、クッレルヴォが自決を決意したあと −− 「穢れし血吸わん/罪犯せし者/危(あや)むるはさだめ」のあと −− の休符の扱いです。ブックレットによると、“4小節マイナス四分音符ひとつ” の休みのようですが、たいていの指揮者はこれを縮めてしまうらしく、たしかに、他の録音ではヴァンスカの演奏ほどの間を聞くことはありません。しかし、この“間”の生み出す効果は絶大です。そのあとの 「クッレルヴォ カレルヴォの子は/青き靴下はき」 の合唱が、この長い休符のおかげで、これまでになかったようなリアリティで迫ってきます。しばしば言われる “休符こそ音楽” の実例と言えるでしょうか。

 ヴァンスカとラハティは、シベリウスが書いた音符とじっくりと対峙することによって作品の内面に踏み込み、この国民的叙事詩を広がりと深みのある音楽として語ります。この演奏を前にすると下世話な言い方に聞こえることでしょうが、音量をあげて、この雄大な世界にどっぷりとひたるのは、ほんとうに堪えられない歓びです。できることなら、このディスクは、色々なオーディオ装置で聴いてみてください。装置が違うと、きっと新しい発見があるはずです。ひとつ忘れていました。リッリ・パーシキヴィ Lilli Paasikivi (b.1965) とライモ・ラウッカのふたりの独唱者の歌も、この演奏の大きな魅力です。

 プレーヤーに言わせると、オスモ・ヴァンスカの棒の動きはけっしてわかりやすいものではないといいます。しかし、長年に渡るつきあいのおかげで、指揮者とオーケストラの間には絶対的な信頼関係が存在し、それがシベリウスの交響曲全曲をはじめとする数多くの録音に成果としてあらわれているように思います。シベリウスホールで録音が行われるヴァンスカとラハティ交響楽団の次回作は、いったい何でしょうか。これまで以上に、このコンビの録音に対する期待が高まります。

 《クッレルヴォ》も、これだけの数の録音がそろい、すでに “古典” となったと言っていいでしょう。これからも録音が行われることと思います。さしあたって、ペトリ・サカリの演奏を聴きたいところですが、少なくともサラステ (ワクワクしたい時) とヴァンスカ ( シベリウスの音楽をじっくりと味わいたい時) の2枚があれば、それ以上は望みすぎというものかも知れません。

(TT)

EMI Classics CZS5 74200-2 ジャン・シベリウス (1865-1957)
 交響詩《クッレルヴォ》作品7 音詩《大洋の女神》作品73 《歴史の情景》組曲 第1番 作品25
 《カレリア》組曲 作品11 − 間奏曲 行進曲風に 音詩《タピオラ》作品112
 音詩《フィンランディア》作品26 2つのセレナード 作品69
  ライリ・コスティア (メッツォソプラノ) ウスコ・ヴィータネン (バリトン) YL (ヘルシンキ大学合唱団) 
  イーダ・ヘンデル (ヴァイオリン) ボーンマス交響楽団 パーヴォ・ベリルンド (指揮)

EMI Classics CDM5 65080-2 ジャン・シベリウス (1865-1957) 交響詩《クッレルヴォ》 作品7 (1892)
  エーヴァ=リーサ・サーリネン (メッツォソプラノ) ヨルマ・ヒュンニネン (バリトン)
  エストニア国立大学男声合唱団 YL (ヘルシンキ大学合唱団)
  ヘルシンキ・フィルハーモニック管弦楽団 パーヴォ・ベリルンド (指揮)

BIS CD313 ジャン・シベリウス (1865-1957) 交響詩《クッレルヴォ》作品7
  カリタ・マッティラ (ソプラノ) ヨルマ・ヒュンニネン (バリトン)
  ラウルン・ユスタヴァト (歌の友) 男声合唱団 ヨーテボリ交響楽団 ネーメ・ヤルヴィ (指揮)

Sony Classical SK52563 ジャン・シベリウス (1865-1957) 交響詩《クッレルヴォ》作品7
  マリアネ
・レアホルム (ソプラノ) ヨルマ・ヒュンニネン (バリトン) YL (ヘルシンキ大学合唱団)
  ロサンジェルス・フィルハーモニック エサ=ペッカ・サロネン (指揮)

Chandos CHAN9393 ジャン・シベリウス (1865-1957) 交響詩《クッレルヴォ》 作品7 (1892)
  ソイレ・イソコスキ (ソプラノ) ライモ・ラウッカ (バリトン)
  デンマーク国立放送合唱団・交響楽団 ライフ・セーゲルスタム (指揮)

Finlandia 3984-21348-2 ジャン・シベリウス (1865-1957)  交響詩《クッレルヴォ》 作品7
 交響曲第3番 ハ長調 作品52 交響曲第6番 ニ短調 作品104 交響曲第7番 ハ長調 作品105
  モニカ・グループ (メッツォソプラノ) ヨルマ・ヒュンニネン (バリトン) ポリテク合唱団
  フィンランド放送交響楽団 ユッカ=ペッカ・サラステ (指揮)

Naxos 8.553756 ジャン・シベリウス (1865-1957) 交響詩《クッレルヴォ》 作品7
  ヨハンナ・ルサネン (ソプラノ) エサ・ルートゥネン (バリトン)
  ラウルン・ユスタヴァト (歌の友) 男声合唱団
  トゥルク・フィルハーモニック管弦楽団 ヨルマ・パヌラ (指揮)

Virgin Classics VC5 45292-2 ジャン・シベリウス (1865-1957)  交響詩《クッレルヴォ》 作品7
  ランディ・ステーネ (メッツォソプラノ) ペーテル・マッテイ (バリトン) エストニア国立男声合唱団
  王立ストックホルム・フィルハーモニック管弦楽団 パーヴォ・ヤルヴィ (指揮)

RCA Victor 09026-68312-2 2CD's ジャン・シベリウス (1865-1957) 交響詩《クッレルヴォ》 作品7
 交響曲第7番 ハ長調 作品105 恋するもの 作品14 音詩《ある伝説 (En Saga)》 作品9
  ヒレヴィ・マッティンペルト (ソプラノ) カール=マグヌス・フレードリクソン (バリトン)
  ロンドン交響楽団・合唱団 サー・コリン・デイヴィス (指揮)

BIS CD1215 ジャン・シベリウス (1865-1957) 交響詩《クッレルヴォ》 作品7
  リッリ・パーシキヴィ (メッツォソプラノ) ライモ・ラウッカ (バリトン) YL (ヘルシンキ大学合唱団)
  ラハティ交響楽団 オスモ・ヴァンスカ (指揮)

 

新譜情報

BIS CD1139 パウトル・イーソウルソン (1893-1974) ピアノ作品全集
 3つのピアノの小品 作品5 2つのユモレスク (Glettur) 作品1
 印象 (Svipmyndir) (アルバムのページ)
 イーソウルヴ・パウルソンの主題による変奏曲
  (Tilbrigði um sönglag eftir Ísólf Pálsson)
  ニーナ=マルガリェーテ・グリームスドウッティル (ピアノ)

◇パウトル・イーソウルソン Páll Ísólfsson は、アイスランド南岸の漁村ストックセイリの生まれ。父イーソウルヴル・パウルソン Ísólfur Pálsson (1871-1941) も、数多いアマチュア作曲家のひとりとしてアイスランド音楽に名前が残っている。銀行員だった叔父のヨウンの援助で、1913年の秋からライプツィヒに留学。作曲をマックス・レーガーに、オルガンを聖トマス教会のオルガニストで合唱指揮者のカール・シュトラウベ Karl Straube のもとで学んだ。シュトラウベを通じてバッハとレーガーのオルガン音楽に接したパウトルは、これらの作品を演奏することによってオルガニストとしての実力を身につけていき、ついにはシュトラウベの助手に任命されるまでになる。その後パリに留学、ジョゼフ・ボネ Joseph Bonnet に師事した。

 国際的な名声が約束されていたにもかかわらず、1921年に帰国。レイキャヴィークのフリー教会 Fríkirka のオルガニストに就任するとともに、ここを拠点としてアイスランド音楽の礎となるさまざまな活動を開始する。1930年には、アルシング(全島集会)設置1000周年を記念するコンペティションのためにカンタータを作曲。受賞作に選ばれる。このときの審査員のひとりに、カール・ニルセンがいた。この年のレイキャヴィークの音楽学校創立にあたり、パウトルは初代校長に就任。同年開設されたラジオ放送局の音楽部長も兼務することになった。放送を通じてパウトルが紹介した“新しい音楽”−− アイスランド伝統の音楽に根ざしたものとは異なる音楽 −− は、当時のアイスランドの人びとに強い衝撃を与えたと伝えられる。

 かなりの数の作品を残しているが、その多くはアイスランドの音楽家やアンサンブルのために作曲された。オルガン曲も多く、《序奏とパッサカリア》や《シャコンヌ》などの大作も作っている。ピアノのための小品は、彼の音楽のなかでもっとも愛好され、演奏されることの多いジャンルのひとつ。パウトルの音楽のルーツは、ドイツのロマンティック音楽にあるといわれ、これらのピアノ曲も、その伝統を踏襲した作風。父の歌に主題をとった《イーソウルヴル・パウルソンの主題による変奏曲 (Tilbrigði um sönglad eftir Ísólfur Pálsson)》は、パウトルのピアノ曲のなかでもっとも優れた曲との定評がある作品。《3つのピアノの小品 (Þrj Píanóstykki)(ITM ITM8-02)、《ユモレスク (Glettur/Humoresques)》と《印象 (アルバムのページ) (Svipmyndir)(ITM7-10) は、オットルン・マグヌーソン Örn Magnússon につぐ録音。アイスランド生まれのピアニスト、ニーナ=マルガリェーテ・グリームスドウッティル Nína-Margrét Grímsdóttir は、母国で教育を受けた後、ロンドンとニューヨークに留学した。

BIS CD1140 ヨハネス・ブラームス (1833-1897) 管弦楽のための編曲による作品集
 ピアノ四重奏曲第1番 ト短調 作品25 (アルノルト・シェーンベルク 編曲)
 4つの厳粛な歌 作品121 (エーリヒ・ラインスドルフ 編曲)
 コラール前奏曲 作品122 − 一輪のバラが咲きいで
  おお神よ、汝いつくしみ深き神よ (ラインスドルフ 編曲)
  ウッレ・ペーション (バリトン) ノールショーピング交響楽団 リュー・チャー (指揮)

◇ト短調のピアノ四重奏曲を編曲した理由として、シェーンベルクが言っていることが面白い。「この曲が好き。めったに演奏されることがない。そして、いいピアニストほど大きな音で弾きたがるために弦楽パートが聞こえず、ひどい演奏ばかりだった。一度すべての音を聴きたいと思い、そのことを達成できた」。ブラームスの他の管弦楽作品よりも大きい編成のために書かれ、コールアングレ、変ロ管クラリネット、バスクラリネット、打楽器も用いられているという。辟易させられるか、啓示となるかのいずれかに違いない。《4つの厳粛な歌》は、ブラームス自身は管弦楽伴奏で書くことを希望していたが、健康上の理由でピアノ伴奏にせざるを得なかったという意見があるとのこと。この曲と2つのコラール前奏曲の編曲をしているのが、過小評価された指揮者エーリヒ・ラインスドルフ (懐かしい名前)。ウッレ・ペーション Olle Pers
son は、ダニエル・ベルツのオペラ《マリー・アントワネット》の公演と録音に参加したことをはじめ、このところの活動が著しいスウェーデンのバリトン。

BIS CD1159 フルートの A から Z 第1集
カレヴィ・アホ (1949-) ソロ III (1990-91)
C・P・E・バッハ (1714-1788) 無伴奏フルートソナタ イ短調 Wq132
マルカム・アーノルド (1921-) 幻想曲 作品89
ユリアン・アンドリーセン (1925-) 夏の牧歌
ウジェーヌ・ボザ (1905-1991) 映像 作品38
JS・バッハ (1685-1750) 無伴奏フルートソナタ イ短調 BWV1013
ルチアーノ・ベリオ (1925-2003) セクエンツァ I
  シャロン・ベザリー (フルート)

◇シャロン・ベザリーはイスラエルのフルート奏者。BIS の新シリーズ “フルートの A から Z” は、独奏フルートのための作品を彼女のフルートにより、作曲者名のイニシャルのアルファベット順に録音するという企画。第1集は、フィンランドの作曲家カレヴィ・アホ Kalevi Aho の《ソロV》から始まる。“素晴らしく美しく、演奏者に苛酷な技術 −− 速い四分音の音階など −− が求められる” といわれる音楽。自分の曲をベザリーが演奏するのを聴いたアホが、“奇跡の場に居合わせる経験をした” と言ったとか。

Danacord DACOCD549-550 2CD's ニコライ・マルコ、デンマーク・コネクション
ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン (1770-1827) 劇音楽《エグモント》 作品84 − 序曲
アントニーン・ドヴォルジャーク (1841-1904) 交響曲第9番 ホ短調 B178 (作品95) 《新世界から》
ピョートル・チャイコフスキー (1840-1893) イタリア奇想曲 作品45
 弦楽のためのセレナード ハ長調 作品48 − ワルツ
 バレエ《眠れる森の美女》 作品66 − 第4変奏VI、ライラックの妖精 (ワルツ)
ヨハン・スヴェンセン (1840-1911) 祝祭ポロネーズ 作品12
カール・ニルセン (1865-1931) オペラ《仮面舞踏会》 FS39 − 序曲
イーゴリ・ストラヴィンスキー (1882-1971) 組曲第2(1921)
ニコライ・リムスキー=コルサコフ (1844-1908) スペイン奇想曲 作品34
  デンマーク国立放送管弦楽団 ニコライ・マルコ (指揮)
アラム・ハチャトゥリャン (1903-1978) 
 バレー《ガイーヌ》 − 子守歌 バラの乙女たちの踊り 剣の舞
モデスト・ムソルグスキー (1839-1881) オペラ《ソロチンスクの定期市》 − ゴパーク
ニコライ・リムスキー=コルサコフ (1844-1908)
 オペラ《皇帝サルタンの物語》 − くまんばちの飛行
アナトリー・リャードフ (1855-1914) ロシア民話に寄せる音画《ババ=ヤガ》 作品56
アレクサンドル・グラズノフ (1865-1936) オペラ《ライモンダ》 作品57 − 大ワルツ
ピョートル・チャイコフスキー (1840-1893) オペラ《マゼッパ》 − ゴパーク
 バレー《くるみ割り人形》 作品71 − 花のワルツ
  フィルハーモニア管弦楽団 ニコライ・マルコ (指揮) [録音 1947年−1950年]

 ニコライ・マルコ Nikolai Malko (1883-1961) は、ウクライナ生まれの指揮者。グラズノフが校長を務めていたサンクトペテルブルグの音楽院に入学。リムスキー=コルサコフ、リャードフ、チェレプニンなど、帝政ロシア最高の作曲家といわれる人たちのもとで学んだ。才能と教育の導きの結果サンクトペテルブルグでオペラとバレエの指揮者としての地位を得ると同時に、第一次世界大戦がはじまる1914年まで、ミュンヘンのフェリックス・モットルにも師事。ロシア革命後は、揺籃期のソ連音楽界の中心的存在のひとりとして活躍した。

 一方、1920年代後期、コペンハーゲンにデンマーク放送局が設立され、宮廷歌手のエミール・ホルム Emil Holm (1867-1950) が監督に就任していた。放送局専属のオーケストラを作ることを最重要課題と考えていたホルムは、政治力をはじめとするあらゆるものを活かして実現に奔走。1930年ごろ、30名の人員を擁する放送管弦楽団が誕生した。大規模な作品の公演の際には、当時唯一の常設の団体だった王立管弦楽団、あるいは季節限定のチボリのオーケストラのプレーヤーがエクストラとして契約された。

 ホルムは、この“彼の”オーケストラになんとか外国の著名な指揮者を迎えることを考えていた。エミール・レーセン Emil Reesen (1887-1964) とラウニ・グレンダール Launy Grøndahl (1886-1960) というデンマーク人の有能な指揮者をかかえていながら、ホルムは、オーケストラの音色とアンサンブルの向上のためには外国人の指揮者を加えることにこだわったという。それは、同じことでも、なまりのあるドイツ語や英語で指示を出されたほうが、デンマーク語で同国人の指揮者が言うよりもはるかに効果がある、という周知の事実のため。

 ここから、ニコライ・マルコとデンマークの関係 (コネクション) が始まる。1928年にウィーンでマルコの指揮を聴いたことのあるホルムは、放送管弦楽団の演奏を聴いてもらうこともマルコに依頼し、1929年の1月にコペンハーゲンに赴くことに同意。しかし、芸術家に対するソ連当局の規制は厳しくなっており、デンマーク行きは不許可になる。その後、南米行きの出国許可をとりつけることに成功するが、そのことは同時に、その後長期にわたって海外渡航の許可がおりないことをも意味していた。マルコは西側に定住することを決意する。

 1930年、マルコはデンマークを訪問。アクセルボーのホールのロシア音楽コンサート −− ミャコフスキーの交響曲第5番、スペイン奇想曲など −− で初めて放送管弦楽団を指揮する。マルコ自身、このオーケストラが気に入り、ホルムも彼を首席指揮者に任命することを検討し始める。しかし、メンバーの半数が常に入れ替わるという不安定な状態ではオーケストラ固有の音色を作り上げることはできない。そこで、深刻な不況の時代にもかかわらず、ホルムは、30人を増員し、58人編成のオーケストラにすることに成功。こうしてマルコは首席指揮者に就任。その後、ナチスによりドレスデンを追われたフリッツ・ブッシュ Fritz Busch もあわせて迎えることにより、デンマーク国立放送管弦楽団の技術的、芸術的な立場の基礎を固めることになる。

 ニコライ・マルコという指揮者は、正確さ、鋭敏さという、オーケストラ・トレーナーに必要な資質をもち、余分な動きのない指揮ぶりと自分の考えをあまり押しつけないというスタイルが好感をもって迎えられたという。“作曲者が音楽のテクスチュアないしオーケストレーションで行わなかったことを強調したり、他の方法で表現するためにテンポや強弱に変化をつけることに頼らなくても、音楽自身が効果を生む” という信条の持ち主だったといわれ、アルバムの冒頭を飾る《エグモント》序曲を聴いただけでもそのことは容易に理解できる。《新世界から》 でも、過度の感傷にふけることもなければ、お祭り騒ぎをやらかすこともない。アメリカの風が吹きながら、作曲者の故郷の香りも漂ってくる。音楽そのものに語らせるということの見本となる演奏。節度あるコールアングレのフレージングが印象的。

 第二次世界大戦後、ふたたび国立放送のオーケストラを指揮するようになってからマルコのレパートリーになったという北欧の曲も3曲ほど含まれる。ニルセンの《仮面舞踏会》序曲は、颯爽として引き締まった演奏。スヴェンセンの《祝祭ポロネーズ》では、まさに “ポロネーズ” が響いてくる。これらの録音は、すべて HMVSP盤からの復刻。ロシア音楽が苦手な者にとっては忍耐のいるプログラムだが、率直な演奏なので、辟易させられることだけはない (チャイコフスキーが終わり、ストラヴィンスキーの組曲が始まったときには、正直、ほっとしたが)。

 2枚組ディスクの余白には、同じ1947年から1950年にかけてマルコがフィルハーモニア管弦楽団と録音した HMV 音源の演奏も収録されている。サンクトペテルブルグ時代の恩師たちの曲が収録されていて、興味深い。

 デンマーク放送のオーケストラとマルコの関係は、1960年1月まで続いた。翌1961年の1月に予定されていたコンサートは、居をシドニーに移していたマルコの健康上の理由でキャンセルになり、同年6月、マルコは他界する。その翌年、未亡人のベルテは、放送管弦楽団による若手指揮者のコンペティションの開催を提案し、優勝者への賞金を自ら調達。2位と3位に与えられる賞金のスポンサーも見つかり、70名を越す指揮者が応募するという成功を収めた。このコンペティションは、ベルテ未亡人の希望もあり、現在もつづく。3年おきに開催され、2001年が第13回目にあたる。コンペティションのほとんどの演奏はラジオ放送され、ファイナルの模様は、テレビ中継されるまでに人気が高いという。日本での知名度が低いニコライ・マルコ演奏を音質のいい復刻で聴けることは、歓迎されるのではなかろうか。

Danica DCD8218 クラウス・ヴェスタゴー・イェンセン (1955-) 教会のための作品集
 今日こそ主の御業の日 (3声とオルガン) シオンの娘に告げよ (3声とオルガン)
 アヴェ・マリア (3声とオルガン) 全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ (4声アカペラ)
 天の元后よお喜びください (2声とオルガン)
 響きを聞く耳をもつ人々は、幸いである (Lyksaligt det folk, som har øre for klang)
  (トマス・ラウブの旋律によるオルガン瞑想曲)
 主の慈しみに生きる人々よ、主に賛美の歌をうたい (3声とオルガン)
 山上の垂訓「心の貧しい人々は、幸いである」 (3声とオルガン)
 互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってもならない (3声とオルガン)
 恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた (2声とオルガン)
 天よ、喜び歌え (4声アカペラ) マリアの賛歌「わたしの魂は主をあがめ」 (3声とオルガン)
 今日、キリストはお生まれになった (3声の二重合唱アカペラとソプラノ独唱)
 いざ、もろびとよ、神に感謝せよ (Nu takker alle Gud) (3つのコラール変奏曲)
 すべての民よ、手を打ち鳴らせ (3声、オルガンとトランペット)
 わたしが命のパンである (2声とオルガン)
 どの民もおのおの、自分の神の名によって歩む (2声とオルガン)
  聖アネ少女合唱団 クラウス・ヴェスタゴー・イェンセン (指揮) ハンス・オーレ・タース (オルガン)
  リケ・エラン (トランペット) アネ・フォンク・ハンセン (ソプラノ)

◇コペンハーゲン市立合唱学校聖アネ・スクールに本拠地をおく聖アネ少女合唱団 Sankt Anne Pigekor は、1973年の創設。レパートリーは広く、なかでも現代の合唱作品とポピュラー曲を得意とする。スヴェン・S・シュルツ Svend S. Schutz (1913-1998)、クヌート・ニューステット Knut Nystedt (b.1915)、ライフ・カイサー Leif Kayser (b.1919)、ミケール・ボイェセン Michael Bojesen (b.1960) らも、このグループのために曲を書いた。デンマーク合唱音楽の伝統を伝えるための海外ツアーも積極的に行う。1980年からは、コペンハーゲンのヘリンゴン教会で行われる荘厳ミサの聖歌隊も務める。ほぼ同年代の少女たちをメンバーとするために声の均質性に特色があり、また、通常は30人から60人のメンバー構成も作品によっては最大で130人程度になることもあるという。デンマークを代表する少女合唱団。

 ヴェスタゴー・イェンセン Claus Vestergaard Jensen は、1955年生まれの合唱指揮者、そして教会音楽の作曲家でもある。聖アンナ少女合唱団との関係は20年以上にわたり、そのほか、カントゥス・フィルムス Cantus Firmus とフレゼリクスボー室内合唱団 Fredereiksborg Kammerkor の創設にも関わり、指揮者を務めた。作曲家としては、主として教会旋法に基づく合唱曲を書き、このディスクでもオルガン伴奏による合唱曲が選曲の中心になっている。アカペラの作品数曲とオルガン独奏曲も収録されているが、オルガン曲のなかではトマス・ラウブの旋律による瞑想曲の静かな音楽が素晴らしい。今回録音された作品は、ほとんどが新約聖書 (マタイによる福音書、ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙U、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書) と旧約聖書 (詩篇、イザヤ書、ミカ書) をテクストとしている。

 合唱曲だからといって美しい響きだけを愛でるのも芸のない話だけに −− 合唱とは本来美しいものだから −− この少女合唱から感じられる神を賛美する感情には心をひかれる。いささかも鋭くなることなく迫力を生む歌唱技術もその表現に貢献しているように思われる。最高域のフォルテシモだけは、少女合唱ではややきついかもしれない。試しに1曲を選んで聴くとすれば《アヴェ・マリア》だろうか。

ECM 461 660-2 ヘイノ・エッレル (1887-1970) 
 抒情組曲 (Luuriline Suite) ネニア (Neenia) (弦楽のための)
 5つの小品 (弦楽オーケストラのための) (1965) シンフォニエッタ (弦楽オーケストラのための) (1965)
 エレジー (ハープと弦楽のための) (1931)
  タリン室内管弦楽団 トヌ・カリユステ (指揮)

Ondine ODE983-2 2CD's mid-price
エイノユハニ・ラウタヴァーラ (b.1928) 弦楽オーケストラのための作品
 ペリマンニたち (フィドル弾きたち) 作品1 ディヴェルティメント (1953)
 弦楽のための組曲 (1952) フェレンツ・リストへのオマージュ (1989)
 ベーラ・バルトークへの墓碑銘 (1955/86) ゾルターン・コダーイへのオマージュ (1982)
 カントI (1960) カントII (1961) カントIII (1972) カントIV (1992)
 ハープと弦楽のためのバラード (1973/80) フィンランドの神話 (1977) 
 ポホヤのポルスカ (1980/93)
  レイヤ・ビステル (ハープ) オストロボスニア室内管弦楽団 ユハ・カンガス (指揮)

1994年の作品、《光の天使》 (交響曲第7番) (Ondine ODE869-2, BIS CD103) によって欧米で一躍注目を集めた、フィンランドの作曲家ラウタヴァーラ Einojuhani Rautavaara の弦楽オーケストラのための作品集。既発売の2枚 (ODE821-2, ODE836-2) を1セットにまとめたもの。第3番のピアノ協奏曲《夢の贈りもの》(1998)、管弦楽のための《秋の庭》(1999)20004月にフィラデルフィアで初演された交響曲第8番《旅》 (1999) など、近年は “ムード” に流されがちの音楽が目につく。《われらの時代のレクイエム》(1953) (ブラスアンサンブルのための) をはじめ、オペラ《ヴィンセント》(1987) −− この作品から素材をとった第6番の交響曲《ヴィンセンティアーナ》(1992) −− などの新鮮で意欲的な音楽を知るものにとっては……。開拓者精神健在のエーリク・ベリマン Erik Bergman (b.1911) やパーヴォ・ヘイニネン Paavo Heininen (b.1938) −− 比較的近作のチェロ協奏曲 (作品53) などでは、自分の世界をいっそう広げた音楽を聴かせ、感動を与える −− らとは対照的。

 このセットに収録された曲は、多種の音楽を統合しながらラウタヴァーラならではの音楽を創作しようとしていた時代のものだけに、いずれも充実した作品。《ゾルターン・コダーイへのオマージュ (Hommage à Zoltán Kodály)》や《カントIV (Canto IV)》などの魅力は、少しも色褪せていない。《ペリマンニたち (Pelimannit)》は、南ポホヤンマー(オスロトボスニア)のペリマンニ (田舎楽士) サムエル・リンダ=ニコラ Samuel Rinda-Kockola の「音楽本 (Nuotti-Kiria)」に収録された民謡を素材にしたピアノ組曲を弦楽オーケストラのために編曲した作品。親しみやすさのためか、フィンランド国内にかぎらず、室内管弦楽団の標準レパートリーになりつつある。第1曲のオープニングについて、あるプレーヤーが、、「間違えずに弾いても間違えたと言われそう」と言ったことを思い出す。“調子のそろわない奏者たち” をからかったとされるモーツァルトの《音楽の冗談》とは違い、村々をまわってフィドルを弾いて聴かせるペリマンニたちの素朴さが表現されていて楽しい。

Ondine ODE986-2D 2CD's for price of 1 ロマンティック歌曲の芸術
フランツ・シューベルト (1797-1828) 漁夫の歌 D881 至福 D433
 ミニョンの歌 「ただ憧れを知る者だけが」 D877-4 ます D550
 劇音楽《ロザムンデ》 D797 − ロマンス 「満月は丘の上に輝き」 笑いと涙 D777
 水の上にて歌える D774 羊飼いの嘆きの歌 D121 汝らに平安あれ D551 男は人が悪い D866-3
 音楽に寄す D547 シルヴィアに D891 君こそわが憩い D776 ガニュメーデス D544
 子守歌 D867 ミューズの子 D764 海の静けさ D216 アヴェ・マリア (エレンの歌 その3) D839
 セレナード D920
  モニカ・グループ (メッツォソプラノ) ルドルフ・イェンセン (ピアノ)  [ODE886-2]
ヨハネス・ブラームス (1833-1897)
 歌曲集《ジプシーの歌》 作品103 − おい、ジプシーよ 波立つリマの流れ
  あの子がいちばん美しいのはいつか、知っているの? 愛する神よ、汝は知る
  日焼けした若者が踊りに行く 3つのばらが ときどき思い出してね 赤い夕焼け雲が流れ
 49のドイツ民謡集 WoO33 − 谷の底では 静かな夜に ああお母さん、欲しいものがあるの
  ひっそりと月は昇る
 恋人の誓い 作品69-4 野の寂しさ 作品86-2 むかしの恋 作品72-1
 低声のための5つの歌曲 作品105 − 調べのように私を通り抜ける
  私の眠りはますます浅くなり 墓地にて
 セレナード 作品106-1 おまえの青い瞳よ 作品59-8 永遠の愛について 作品43-1
 五月の夜 作品43-2 甲斐なきセレナード 作品84-4 子守歌 作品49-4 アルトのための2つの歌 作品91
  モニカ・グループ (メッツォソプラノ) アレクセイ・ルビモフ (ピアノ)
  イラリ・アンゲルヴォ (ヴィオラ) ユビラーテ合唱団  [ODE896-2]

◇フィンランドのメッツォソプラノ歌手モニカ・グループ Monica Groop (b.1958) の最近の活躍は、実にめざましい。モーツァルトのオペラの諸役 (ドラベッラ、ケルビーノ、セクストゥス、ツェルリーナ) をヨーロッパ各地で歌い、1991年にはコヴェントガーデンにデビュー。1994年には、再びロイヤル・オペラでトレヴァー・ナン演出によるヤナーチェクの《カーチャ・カヴァノヴァー》に出演。1993年のパリ・オペラ・コミークでのアルミン・ジョルダン指揮によるシュトラウスの《ナクソス島のアリアドネ》の作曲家役でのデビューも大きな成功を収めたという。興味があるのは、ピーター・セラーズ演出、エサ=ペッカ・サロネン指揮による1995年ロサンジェルス・オペラ公演のドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》。1999年にはグラインドボーンの《皇帝ティトの慈悲》の上演にも参加した。歌曲リサイタルも、ロンドンのウィグモアホールやニューヨークのアリス・タリー・ホールなどで定期的に行っている。

 BIS からリリースされたシベリウス歌曲集 (CD657) では、《小さな娘たち》のようなリズミカルな歌は見事だったものの、旋律が重要な曲 −− 《5つのクリスマスの歌》の《栄誉はいらない》など −− では、フレーズよりも音節を重視した歌い方のせいか、歌としての魅力に欠けると感じられることがあった。グリーグの歌曲集も同様。深みのある声をもっているだけに残念に思っていたが、この Ondine のセットでは、歌がうまくなったという感じ。全体として、とても楽しめるリサイタル・アルバムになっている。一つひとつの曲を丁寧に歌いながらも、(シュヴァルツコプフの歌のように) 単語の母音や子音の発声に必要以上の注意を払いすぎて、音楽がくどくなるということもない。クレッシェンドをする時に声を押し出し気味にするのが気になるところも何カ所かあるものの、“色気のある” 暖かい歌の魅力がそれに勝る。

 ルドルフ・ヤンセン Rudolf Jansen は、オランダのピアニスト。リート伴奏の名手のひとりとしてエリー・アーメリング、イリーナ・アルキポワ、ブリギッテ・ファスベンダー、(師でもある)フィッシャー=ディースカウらと共演し、世界各地で活躍する。北欧の歌手では、トム・クラウセとの共演がある。録音でなじみ深いのは、クヌート・スクラムやマリアンネ・ヒシュティと共演した Victoria のグリーグ歌曲集。ロシアのアレクセイ・ルビモフ Alexei Lubimov は、1963年にモスクワ音楽院に入学し、ハインリヒ・ノイハウスの最後の生徒のひとりとなる。初めての1968年のコンサートでジョン・ケージやテリー・ライリーの曲を演奏したというくらい現代の音楽に興味をもつ一方、時代楽器の研究も行い、1976年にはモスクワ・バロック四重奏団を設立した。1987年からはソロイストとしてリサイタルや世界各地のオーケストラとの共演を行いながら、室内楽奏者としても活躍している。このふたりの伴奏ぶりも、聞き所のひとつ。(個人的に、ヨルマ・ヒュンニネンや若いころのホルツマイヤーのシューベルトやシューマンなどとともに)静かな夜更け、なんとはなしに聴きたくなるようなアルバム。

 1996年8月と1997年2月、ヤルヴェンパー・ホールでの録音。ODE886-2ODE896-2 をセットにしての再リリース。

Point PCD5149 JS・バッハ (1685-1750) 6つのトリオソナタ
 ソナタ ハ長調 BWV529 ソナタ ニ短調 BWV527 ソナタ ハ短調 BWV526
 ソナタ ト長調 BWV530 ソナタ ホ短調 BWV528 ソナタ 変ホ長調 BWV525
  クリスチャン・ラーセン (オルガン) [ロスキレ大聖堂 (コペンハーゲン) ラファエリス・オルガン]

◇このディスクの魅力のひとつは、コペンハーゲンのロスキレ大聖堂の歴史的オルガンを聴けること。この大聖堂に最初にオルガンが建造されたのは、15世紀中期にさかのぼるとされるが、現在の位置にある楽器は、1554年から1555年にかけてオランダ人のヘルマン・ラファエリス・ロッテンスタイン=ポック Herman Raphaëlis Rottenstein-Pock により新たに建造。その後も何度となくパイプの追加や改修工事が繰り返され、もっとも最近では1991年に改修された。その際には、このオルガンの過去から現在までのパイプの詳細と改修の詳細な歴史が記述した解説を書いた、コア・H・エースケス Cor H. Edskes が楽器の調査を担当している。この解説は、オルガンに興味のあるひとには貴重な資料となるはず。

 トリオソナタについて、ヤン・ヤコビ Jan Jacoby は次のように述べている。「トリオソナタは、バロック期室内楽の代表的な形式のひとつ。4声部を均衡させることによりテクスチュアの結合をめざす弦楽四重奏に対して、トリオソナタの場合、独奏楽器が表現の主役を務め、ハープシコード、オルガン、リュートは通奏低音として伴奏部を担当する。ソロソナタも同様だが、トリオソナタの場合は、2つの外声部の声部の線的な動きを強調するために、低音補強の目的でチェロやバスーンといった低音楽器が付け加えられる。メロディ楽器の技巧を聴かせるソロソナタ。トリオソナタでは、2つのソロ楽器の声部が常に交代して二重奏の様相を呈し、その一方で低音楽器が独立した声部を奏する。

 「バッハのトリオソナタは、こういうバロック期の様式を覆した。バッハのフルート、ヴァイオリン、ヴィオラダガンバなどのためのソナタでは、通奏低音を担当するハープシコードの2声の右手に独奏楽器に似た役割が持たされる。いわば2人の奏者によるトリオソナタ。ハープシコードは、通奏低音から “オブリガート・ハープシコード” に変わり、それがひとりの奏者によるトリオソナタ原型となり、バッハの独特のオルガンソナタ (トリオソナタ) として完成される」 (解説書要約)

 クリスチャン・ラーセン Christian Larsen は1958年、フュン島の生まれ。オーゼンセの王立音楽アカデミーで教会音楽の学位を取得、その後、ピアノとオルガン演奏の研究をつづける。ウィーンでは、マーティン・ハーゼルベック Martin Haselböck にも師事。1985年以降はコンサート活動をつづけ、1991年から1995年にかけてはコペンハーゲンの王立音楽アカデミーでオルガンを教えた。1990年以後、ネーストヴェズの聖ペテロ教会のオルガニスト。

Point PCD5151 クリスマス・キャロル
デイヴィッド・ウィルコックス (1919-) (編曲) 神の御子は今宵しも
ウィリアム・マティアス (1934-) 城門よ、頭を上げよ 作品44-2 (1969)
エドガー・ペットマン (1866-1943) (編曲) 天使ガブリエルが御国からやってきた
W・カークパトリック (1838-1921) (ピーター・グレアム (1958-) 編曲)
 はるか遠くの飼葉桶 (神の御子のイエス様は)
ジョン・ラター (1945-) 星のキャロル
グスターヴ・ホルスト (1874-1934) おねむりなさい、いとしい子よ (Lullay my liking)
プレーベン・ネアゴー・クリステンセン (1960-) (編曲)
 天のいと高きところに栄光 (2つのピッコロトランペットとブラスバンドのための)
アンドリュー・カーター (1939-) (編曲) やさしいやさしい処女の歌
メル・トーメ/R・ウェルズ (フィリップ・スパーク (1951-) 編曲) クリスマスの歌 (1946)
ジョン・ラター (1945-) 羊飼いの笛のキャロル
GF・ヘンデル (1685-1759) ハレルヤ・コーラス
16世紀フランスの曲 (デイヴィッド・ウィルコックス 編曲) ディンドン、空高く
フランス伝承曲 (プレーベン・ネアゴー・クリステンセン 編曲) 
 聖なる御子キリストがお生まれになった (2つのピッコロトランペット、合唱とブラスバンドのための) (1995)
コーンウォール伝承曲 (ジョン・ラター 編曲) セント・デイ村のキャロル
フェリクス・メンデルスゾーン (1809-1947) (デイヴィッド・ウィルコックス 編曲) 天にはさかえ
  ケティル・クリステンセン (フリューゲルホルン、ピッコロトランペット)
  ラース・オーレ・スミット (ピッコロトランペット) トーベン・マセン (テノール)
  アスガー・ホアヴィング (テノール) スヴェン・オーレ・コムバク (オルガン)
  ティステズ教会少年男声合唱団 北西ユラン・ブラスバンド 
  プレーベン・ネアゴー・クリステンセン (指揮)

◇デンマーク、ユラン (ユトランド) のティステズ市を本拠地とする合唱団とブラスバンド −− 金管楽器だけの正真正銘の“ブラスバンド” −− の共演による、クリスマス・キャロル集。ティステズ教会少年男声合唱団は、1982年に少年合唱団として創設。1988年に男声が加わり、少年はソプラノパートだけを担当するようになった。イギリスのカテドラル聖歌隊の伝統的編成をモデルにしたとされる。オルボー交響楽団と共演する機会が多く、バッハの《クリスマス・オラトリオ》やヘンデルの《メサイア》などの大曲の演奏にも参加する。北西ユラン・ブラスバンドは、プレーベン・ネアゴー・クリステンセンが1987年に結成した団体。創設の翌年には、デンマーク・ナショナル・チャンピオンシップの第3セクションで優勝。1993年には第2セクション、1994年には初めて参加した第1セクションでそれぞれ優勝者となった。

 プレーベン・ネアゴー・クリステンセン Preben Nørgaard Christensen (b.1960) は、オルボーの音楽アカデミーの卒業後、ヨーロッパ各地でオルガンのマスタークラスに参加。1980年から1986年までヨアリングのヴィストロプ教会のオルガニストを務めた後、1986年からはティステズ教会のオルガニスト兼合唱指揮者の地位にある。その他、母校のアカデミーでの教職、北西ユラン・ブラスバンドの指揮者、オルボー交響楽団のハープシコードとオルガンのアシスタント奏者としても多忙な活動をつづけている。変わっているのは、優れたユーフォニアム奏者としても知られていること。1987年にポーランドで行われたコンペティションでは、独奏部門の優勝者に選ばれた。

 ティステズ教会少年男声合唱団と北西ユラン・ブラスバンドが合同で行う毎年恒例のクリスマス・コンサートは人気が高く、是非このコンビによるディスクを、との声に応えて録音が実現した。録音は、1999年3月と10月。代表的なクリスマスキャロルを中心としたプログラムになっていて、指揮者のネアゴー・クリステンセン自身の編曲も2曲ほど含まれている。《はるか遠くの飼葉桶 (Away in a Manger)》、《天のいと高きところに栄光 (Gloria in excelsis Deo)》、《クリスマスの歌 (The Christmas Song)》の3曲は、ブラスバンドだけによる演奏。ポピュラー歌手のメル・トーメがウェルズと共作した《クリスマスの歌》は、「Chestnuts roasting by an open fire (暖炉の火で栗を)」というタイトルでも有名。この録音では、ウィンドオーケストラ・ファンにはおなじみのフィリップ・スパーク Phlip Sparke (b.1951) による編曲で演奏されている。その編曲が “いかにもフィリップ・スパーク” という感じで面白い (なんだか、ビーチボーイズのクリスマス・アルバムが聴きたくなる気分)。

 《はるか遠くの飼葉桶》でフリューゲルホルンを吹き、甘い音色を聴かせるのは、ゲストプレーヤーのケティル・クリステンセン Ketil Christensen。この曲では、名前がクレジットされていないユーフォニアム奏者も素晴らしい。ユーフォニアムも吹くとはいっても、まさか指揮者のネアゴー・クリステンセンということはなかろうが。ケティルは、《天のいと高きところに栄光》と《聖なる御子キリストがお生まれになった (Born on earth the divine Christ Child)》では、ラース・オーレ・スミット Lars Ole Schmidt (b.1961) と一緒にピッコロトランペットを吹いている。

 星の数ほどあるクリスマス・アルバム。ブラスアンサンブルを伴う元気のいいクリスマス・アルバムとして思い出される、ストックホルム聖ヤコブ教会室内合唱団のディスク “ウェルカム・クリスマス (Welcome Christmas)(Proprius PRCD9138) と同様、みんなで楽しめる1枚。時折少年たちがお疲れ気味なのはご愛敬?

Point PCD5156 合唱のための20世紀教会音楽
カール・ニルセン (1865-1931) わがイエスよ、わが心に訴えたまえ (1919)
 教えてくれ、夜の星よ (1925)
クヌーズ・イェペセン (1892-1974) いま太陽は東の空に昇る (1936) 聖なる山に基を置き (1936)
 ひとつのことを主に願い (1936)
ベアンハート・レオコヴィチ (1927-) 夕べの歌 (1975)
 3つの詩篇 作品9 (1952)
  全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ 深き淵より 全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ
ニルス・ラクーア (1944-)
 3つのラテン語のモテット (1992)
  頭を上げよ 主、われらが神に感謝を捧げよう まことに聖なるかな、おお主よ
アーロン・コープランド (1900-1990)
 4つのモテット (1921)
  われらを救ってください、おお主よ なんじエホバよ、永遠にわれらとともに
  われらに憐れみを、おおわが主よ われらの王を讃える歌を歌え
モーリス・デュリュフレ (1902-1986)
 グレゴリオ聖歌の主題による4つのモテット (1960)
  愛と慈しみのあるところ なんと美しいかた、おおマリアよ おまえはペトロ ひれ伏して礼拝しよう
 われらが父 (1978)
カミーユ・サン=サーンス (1835-1921) なんと立派な (1916)
  ブローゴー室内合唱団 エーリク・デュネセン (指揮)

◇ブローゴー室内合唱団は、エーリク・デュネセン Erik Dynesen が学生を中心として1974年に組織した混声合唱団。コペンハーゲンを本拠地として、1977年からはあるゆる分野からメンバーを募るようになる。ルネサンスから現代までの宗教曲と世俗曲をレパートリーとする。ちょっとフィンランドの合唱を思わせる素朴で飾り気のない歌い方が特徴的といえるかもしれない。これまでに、ノルウェー、スウェーデン、スコットランド、オークニー諸島(スコットランド)、フェロー諸島、ウェールズ、アイルランド、フランス、ハンガリー、オーストリアに演奏旅行を行っている。今回のディスクの録音は2000年、コペンハーゲンのカステル教会で行われた。教会に響く合唱が巧みにとらえられている。

 収録された作品の中では、崇高な美しさを言うと、カール・ニルセン Carl Nielsen の2曲 (《わがイエスよ、わが心に訴えたまえ (Min Jesus, lad mit hjerte få)》、《教えてくれ、夜の星よ (Lær mig, nattens stjerne)》) とデュリュフレ Maurice Duruflé の《グレゴリオ聖歌の主題による4つのモテット (Quatre Motets sure des thèmes grégoriens)》。クヌーズ・イェペセン Knud Jeppesen、ベアンハート・レオコヴィチ Bernhard Lewkovitch、ニルス・ラクール Niels la Cour の作品は、それぞれのデンマークの作曲家たちの宗教心がおおらかな音楽に結晶した作品。ラクールの《3つのラテン語のモテット》は、すでに各国の合唱団のレパートリーとなっている。レオコヴィチの《全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ》(詩篇第65番がテクスト)は、躍動感あふれる音楽が印象的。サン=サーンス Camille Saint-Saëns の曲は、まさに甘美な音楽。このプログラムではコープランド Aaron Copland の作品だけが様式的に異質のような気もするが、モルモン会堂聖歌隊の録音 −− あれは (とんどもない意味で) すごい! −− にくらべると、ずっと充実した音楽に聞こえる。様々なスタイルの作品が歌われているだけに、かりに “宗教” を度外視しても、飽きさせないアルバムに仕上がっている。欲を言えば、男声にもう少し深みのある響きが求められてもいいかもしれない。趣味の問題だろうが。

Rondo RCD8367 ラッパを吹き鳴らせ (Sound the Trumpets)
ジャン・ジョゼフ・ムレ (1682-1738) 組曲第1番 − ロンドー
ヘンリー・パーセル (c.1659-1695) ラッパを吹き鳴らせ (Sound the Trumpet)
 トランペットの調べ (Trumpet Tune)
ペドロ・デ・アラウホ (1610-1684) 戦いの場 (Batalha)
ジェレマイア・クラーク (1673-1707)
 組曲 ニ長調 − ロンド《デンマーク皇太子の行進 (The Prince of Denmark's March)
  (トランペット・ヴォランタリー)
トマーゾ・アルビノーニ (1671-1751) (レモ・グラッツォート) アダージョ ト短調
トマーゾ・アルビノーニ (1671-1751) 協奏曲 ハ長調
GP・テレマン (1681-1767) 協奏曲 ニ長調 − アダージョ
ジャン・フランソワ・ダンドリュー (1682-1738)
 大きな音をたてたミショー(Michau qui faisait ce grand bruit) (オルガン独奏のための)
JS・バッハ (1685-1750) イエスはわが喜び
 管弦楽組曲第3番 ニ長調 BWV1068 − アリア (G線上のアリア)
 カンタータ第208番「わが楽しみは、元気な狩のみ」 (狩のカンタータ) BWV208 − 羊はやすらかに草をはみ
 アリア《汝わがそばにあらば、喜びもてわれは行く》 BWV508
シャルル・グノー (1818-1893) アヴェ・マリア (J・S・バッハのハ長調前奏曲による瞑想曲)
レオポルト・モーツァルト (1719-1787) 組曲 ヘ長調
WA・モーツァルト (1756-1791) ピアノ協奏曲第21番 ハ長調 K467 − アンダンテ (第2楽章)
 モテット《踊れ、喜べ、なんじ幸いなる魂よ》 K165/158a − アレルヤ
ニルス・W・ゲーゼ (1817-1890)
 「主たる神の支配に心安らぐものは (Hvo ikkun lader Herren råden)」 によるオルガン・コラール
フェリクス・メンデルスゾーン (1809-1847) おお、鳩の翼のために
ニルス・W・ゲーゼ (1817-1890)
 「天のいと高きところより (Af Højheden oprunden er)」 によるオルガン・コラール
アドルフ・アダン (1803-1856) クリスマスの歌「聖らに星すむ今宵」
  ケティル・クリステンセン (トランペット) オラヴ・プロウ=ヨーアンセン (トランペット)
  イェンス・E・クリステンセン (オルガン)
  [クリスチャンスハウン (コペンハーゲン) クリスチャン教会のオルガン]

◇ケティル・クリステンセン、オラヴ・プロウ=ヨーアンセン、イェンス・E・クリステンセンの3人がトリオによる教会演奏活動を開始してから10年。このディスクは、その10周年を記念して製作された。これまでの教会コンサートで演奏された曲の中から、3人が “古典的な珠玉の小品” と呼ぶ特に有名な曲がプログラムに選ばれている。

 ケティル・クリステンセン Ketil Christensen (b.1952) は、デンマークを代表するトランペット奏者のひとり。コペンハーゲンの王立音楽アカデミー (クアト・ペーザセン Kurt Pedersen とオーレ・アナセン Ole Andersen に師事) を卒業後、パリでモーリス・アンドレのもとで学んだ。19歳でデンマーク王立管弦楽団の首席トランペット奏者に選出。その後デンマーク国立放送交響楽団の首席にも就任し、現在に至るまで両方の地位を兼務している。王立デンマーク・ブラスとコペンハーゲン・コレギウム・ムジクム −− ニルス・ゲーゼの交響曲全曲録音 (dacapo) がある −− の創設メンバー。

  オラヴ・プロウ=ヨーアンセン Olav Ploug-Jørgensen (b.1953) は、オーゼンセでクアト・ペーザセンとペーター・マセン Peter Madsen の指導を受けた後、ケティル・クリステンセンやオーレ・アナセンらに師事。ヴィボーの皇太子近衛管楽バンドのメンバーと同時に、デンマーク・バロック・ソロイスツの独奏トランペット奏者でもある。

 オルガニストのイェンス・E・クリステンセン Jens E. Christensen (b.1946) は、クリスチャンスハーウン(コペンハーゲン)の救世主教会のオルガニスト。グレーテ・クロウ Grethe Krogh、サンティアゴ・カストナー Santiago Kastner (スペイン、ポルトガル音楽)、ヴェルナー・ヤーコブ Werner Jacob (ロマン派作品と前衛音楽)、マリー=クレール・アラン Marie-Clairre Alain (フランス音楽) に師事。デンマーク王立音楽アカデミーで教えながら、クリスチャンサン (ノルウェー)、リガ (ラトヴィア)、ロンドン王立音楽アカデミーでマスタークラスを開催する。

 記念すべきこのディスクに収録された作品は、3人が語るとおり、有名曲ばかり。しかし、いずれも作品を知り尽くしたと言えるほど完成度の高い演奏を聴かせ、この種の企画にありがちな安易さが感じられない。オルガン独奏、ケティルとイェンス、オラヴとイェンス、そしてトリオと、曲によって組み合わせも変え、決して単調なアルバムになっていないのは、記念アルバムという意識も関係しているかもしれない。アルビノーニの −− 本当はレモ・グラッツォート Remo Grazzoto の作品? −− の《アダージョ》やモーツァルトのハ長調協奏曲の緩徐楽章の編曲など、下手をすると趣味を疑われかねないが、演奏する歓びが手に取るように伝わってくるだけに、心配は無用。

 ケティルにくらべるとオラヴの名前は一般に知られているとは言えないが、この人も素晴らしい奏者。ヴィブラートの使い方は、ケティルよりも一層控え目。それにしても、“清潔感のある色気” とでも呼びたいケティルのトランペットの音色と躍動感いっぱいの演奏は、まさに第一人者のもの。パーセルの《トランペットの調べ (Trumpet Tune)》の自信にあふれて颯爽としたトランペットなど、嬉しさのあまり “泣けてくる” (ケティル・クリステンセンのソロでバッハのブランデンブルク協奏曲第2番や第51番のカンタータの演奏が実現したら素晴らしいのでは −− ミケール・シェーンヴァント指揮コレギウム・ムジクムの共演で、カンタータのソプラノソロは、もちろんバーバラ・ボニー)。

 録音は、2000年にクリスチャンスハーウンのクリスチャン教会で行われた(明快な響きのオルガンが美しい)。3人のアーティストの願いは、CDという、ライヴにくらべて “クールな” 媒体が彼らの演奏する歓びを聴き手にはっきりと伝えてくれることだとか。教会の響きを自然にとらえた Rondo の録音が、彼らの思いを実現することに預かっているように思われる。

Tutl FKT16 破壊 (Brotið) − ルーニ・ブラッタベアグ、歌曲を歌う
ジャン・シベリウス (1865-1957)
 岸辺のもみの木の下で (Under strandens granar) 作品13-1
 若い狩人 (Jägargossen) 作品13-7 死よ、近づくな (Kom nu hit död) 作品60-1
 迷い (Vilse) 作品17-4
フランツ・シューベルト (1797-1828) 船乗り D536 夜の曲 D672 魔王 D328
 御者クローノスに D369
モデスト・ムソルグスキー (1839-1881) 神学生 (1866) 牡山羊 (1867) 古典学者 (1867)
 蚤の歌 (1879)
レーイン・ダール (b.1918) (S・ラスムセン 編曲)
 君にはダイアモンドと真珠がある (Tú hevur tær dýrastu perlur) 流浪者 (Útlegd)
ソンライフ・ラスムセン (b.1961) まばたきした丘 (Fjallið í blunkaði) 言葉の正体 (Orðasamleiki)
 破壊 (Brotið, ið fór við einseminum) 
  ルーニ・ブラッタベアグ (バス) ハンス=オット・エールストレム (ピアノ)

◇フェロー諸島出身のバス歌手ルーニ・ブラッタベアグ Rúni Brattaberg (b.1966) は、ユニークな経歴の持ち主。ヴォグルの学校に通っているころに所属していた教会の聖歌隊ではテノールを歌い、その後トーシュハウンに移ってからは、道路工夫やタクシー運転手などの職についた。地方新聞のために写真を撮ったことがきっかけで、コペンハーゲンの写真学校に入学。カメラマンとして認められはじめた矢先、偶然ルーニの歌を聴いたペーア・フォルクヴァー −− 教職のかたわらオペラにも出演していた −− の勧めにより、カメラを捨てて、歌の道に進むことになる。フェロー諸島で新たに結成されたヴォーカルアンサンブル “ノウアトウン (Nóatón)” によるソンライフ・ラスムセンの作品の録音 (Tutl FKT9) に参加するために帰国。合唱指揮者を務めていたドイツ人ヨハネス・ラーエから初めて正式な歌のトレーニングを受ける。1995年、デンマーク国立放送合唱団に入団。当時コペンハーゲンに移っていた、フィンランドのバス歌手キム・ボリ Kim Borg (1919-2000) に師事し、ボリの勧めにより1997年シベリウス・アカデミーのオペラ研究科に入学する。このオペラ・スタジオでヴォイス・トレイニングを行ったヨルマ・ヒュンニネン Jorma Hynninen (b.1941) に声楽の才能を認められる。1997年11月には、ヘルシンキでソロリサイタルを開催。この録音で共演するハンス=オット・エールストレム Hans-Otto Ehrström (b.1972 フィンランド) が、その伴奏者を務めた。その後、ハンブルクで、フィンランドの国際的バリトン歌手トム・クラウセ Tom Krause (b.1934) に師事。現在はプロ歌手としてオペラ −− ボリス・ゴドゥノフなど、20を越える持ち役 −− と歌曲の両方で活躍している。

 素晴らしく魅力的な声の持ち主で、国際的なレベルでのバスらしいバス歌手。這いつくばるような声質のバスでないだけに、日本では……。ルーニ・ブラッタベアグの歌うシューベルトを聴いて、トム・クラウセの《白鳥の歌》の全曲録音のことを思い出した。バスとバリトンという違いはあるものの、何か共通するところが感じられる(同じ北欧の歌手だから?)。《魔王》などでは物足りなさが残るものの、シベリウスやムソルグスキーの歌曲には、声の魅力以上のものがありそう。フェロー諸島の作曲家の作品も歌われており、レーイン・ダール Regin Dahl の2曲は、しっとりとした旋律をもち、ソンライフ・ラスムセン Sunleif Rasmussen の歌からは、北大西洋の暗い自然が感じられる。

 すべて原語による歌唱。ハイネの詩のフェロー語の訳詞に作曲された、レーインの《君にはダイアモンドと真珠がある (Túhevur tær dýrastu perlur/Du hast Diamanten und Perlen)》をのぞき、英語の対訳がつけられている。

 ルーニ・ブラッタベアグは、背が高く、がっしりした体格の持ち主とのこと。この声と舞台映えする容姿となれば、オペラの公演にも接してみたい。

 

入荷予定の旧譜

Campion CAMEO2007 ヤニス・イヴァノフス (1906-1983) 交響詩《虹》 変ニ長調 (1939)
 交響曲第4番 変ホ長調《アトランティス》 (1941)
  ラトヴィア国立交響楽団 ツィンタルス女声合唱団 ヴァシーリー・シナイスキー (指揮)

◇ヤニス・イヴァノフス Janis Ivanovs (1906-1983) は、ラトヴィア東部ラトガーレの生まれ。ラトヴィア国立音楽院でヤセプス・ヴィトリス Jazeps Vitols (1863-1948) に作曲法を、イェオリ・シュネーヴォイクト Georg Schnéevoigt (1872-1947 フィンランド) に指揮法を師事した。初期の作品は、ショパンやスクリャービンの影響を受けながらも、憂鬱、幻想的といった独自の色彩をもつピアノの小品を書いたとされるが、その後は管弦楽のための作品を多数手がけるようになった。21曲の交響曲 −− 第21番は、オーケストレーションされずに残された −− を中心的に、交響詩、組曲、協奏曲などを作曲。歌曲や民謡の編曲も多数残っているという。1930年代までの作品の色彩感はラトヴィアの民俗音楽に根ざすものといわれ、和声の点では後期ロマン派と印象主義の影響が強く感じられる。プロデューサー、芸術監督としてラトヴィア放送局に勤務した際に接した、ストラヴィンスキー、オネゲル、ラヴェル、バルトーク、シマノフスキーらの音楽も、イヴァノフスの音楽に強く反映した (1939年の交響詩《虹》は、どことなくラヴェルの《ダフニスとクロエ》を思い起こさせること)。

 ラトヴィアは1940年6月にソ連軍に占領され、1941年から1944年まではナチス・ドイツ、その後ふたたびソビエト連邦に組み入れられ、苦難の時代がつづく。1940年代前半には音楽によってさまざまな “葛藤” を表現したイヴァノフも、ショスタコーヴィチやプロコロフィエフらソ連の作曲家たち同様、大衆に受け入れられる音楽を書くことを求められるようになる。交響曲では第6番以後の作品と民謡風の旋律が美しいといわれるヴァイオリン協奏曲が、この時代に該当する。“おかかえ作曲家” としての立場を保証されていたイヴァノフも、良心ではモスクワの政権を認めていなかったにもかかわらず、ショスタコーヴィチのように “証言” を発表することをせず、むしろ政治から距離を置き、交響曲によって自らの良心を証言したと言われる。書法は簡潔になっていき、1960年代初頭の交響曲は十二音技法も取り入れられているとされる。しかし、ラトガーレの美しい自然 −− 牧場や丘や湖 −− に育まれたイヴァノフの本質は伝統主義にあるとされ、1960年代の終わりからは、“新ロマンティシズム” と特色づけられる作風に変化していく。

 イヴァノフの交響曲を紹介するこのシリーズで興味深いのは、《アトランティス》の副題がつけられた第4番の交響曲。すでに第二次世界大戦が勃発していた1941年に作曲され、来るべき運命を予言するとも警告するとも言われる作品。それぞれの楽章には、作曲者自身による内容の説明がつけられている。第1楽章《プラトンの警告》 −− エジプトの女神ネイトの寺院の老僧がアテネの立法家で賢人のソロン (638?-559?BC) に語った物語。ソロンの言葉により、プラトンはアトランティスの物語を知る。第2楽章《ポセイドン、パピロン》 −− アトランティスの首都パピロンでは、オーケアノスの娘たちオーケアニデス(大洋の女神)100人が、海神ポセイドンの巨像のちかくで歌を歌っている。第3楽章《アエデス・サクラ》 −− 聖なる寺院で太陽の円盤を拝む宗教的儀式。第4楽章《恐ろしい日に、恐ろしい夜に》 −− アトランティス島は消え、海に沈んだ(プラトン)。神々の怒りの怖さ…苦悶の地に、ついに、深く、抗しがたい静けさが訪れる。岸辺も、山も、町もない。恵みの島、かつて美しく、繁栄したアトランティスは、すでにない。星空の下、大洋の神秘の深淵は、ゆっくりと重苦しく眠りにつく。風だけが寂しい波の上で嘆き悲しむ。何千年にもわたって。

 交響曲第4番は、交響詩《虹》のような印象主義的な色彩 −− 特に、オーケアニデスの合唱をともなう第2楽章 −− と後期ロマン派の影響を残しながらも、イヴァノフが新しい方向に向かっていることが感じられる作品。

 同じバルト海に面して並んでいながら、民族的、文化的にエストニアはフィンランドに近く、リトアニアはポーランド、そしてラトヴィアはロシアとの近似性が強いといわれるが、イヴァノフのこの時代の作品にかぎれば、気の滅入るようなロシア的雰囲気とは一線を画しているような気がする。そこは、やはり “北欧文化圏” の作曲家だから?

(TT)


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© Nordic Sound Hiroshima "Kullervo" lyrics © Shozo Ohtsuka, by kind permission

CD artwork © Ondine (Finland), BIS (Sweden),OH Musik (Denmark), Tutl (Faroe Islands)