ペッテション=ベリエルの〈フローセの花〉

 

 ピエール・ブーレーズが指揮した〈ニーベルングの指輪〉を聴いたことがありますか? パトリス・シェローの特異な演出とあいまって、目の覚めるような演奏。おもしろいのなんの。歴史的録音とやらに名をつらねる面々による −− 情念だか執念だか知りませんが −− ベトベト、ネチネチした演奏で聴くとうんざりする音楽が、それは清々しく響きます。重要なのは、視点が違っていながら、ヴァーグナーの音楽のドラマ性も失われていないこと。ヘルベルト・ケーゲルが録音した〈パルジファル〉からも同じことを感じました。

 これは完全に好みの問題ですが、現代音楽を得意とする演奏家がきかせる古典主義やロマンティシズム音楽の演奏には、独特のさわやかさが感じられます。ブーレーズは “前衛” と呼ばれたこともある作曲家。ケーゲルは、東ドイツで新しい作品を精力的に紹介した指揮者。このひとたちの手にかかると、手垢がついてしまった音楽が新しく生まれ変わって聞こえるとでも言いましょうか。それが素晴らしい。“棺に入ってしまった”作曲家の作品にしか関心のない人たちの演奏からは聴かれない音楽です。現代の音楽を敬遠することは演奏家の嗜好の問題でもあるので、それはそれで間違ってはいないのでしょう。でも、新しい感覚の人たちの音楽に感じられる美学は格別です。そして、それぞれの時代の様式を熟知し、広い視野に立って音楽をみつめる彼ら。アーリーミュージックの演奏家たちが古典やロマンティシズムの音楽を取り上げる際にありがちな “論争を挑む (controversial)” スタイルとは、まったく異なる動機 −− そして、インスピレーション −− による演奏であることは言うまでもありません。

 こういう音楽を聴くと、思わず飛び跳ねたくなるほど幸せな気分になる。そういうことって、ありませんか? ごく最近では、ハーゲン四重奏団が録音したモーツァルトのハイドン・セットの6曲の録音がそうでした。照れを承知で言うなら、彼らの演奏するモーツァルトを聴きながら、ジーンとくる瞬間をなんどとなく経験しました (これが感動なのだろうか?)。

 北欧の例で言えば、フィンランドのクラリネット奏者カリ・クリーク Kari Kriikku (b.1960) がクルーセル Bernhard Henrik Crussell (1775-1838) のクラリネット協奏曲で、古典的な音楽をとても鮮やかな音で響かせていました。彼も積極的に現代音楽と関わり合っている音楽家です。現代曲の代表的な録音を挙げると、アヴァンティ!室内管弦楽団 Avanti! Kamariorkesteri と共演した、オッリ・コルテカンガス Olli Kortekangas (b.1955) の〈クラリネット、チェロと管弦楽のための演奏会小品 (Konzertstück for Clarinet, Cello and Orchestra)〉(1992-93) やマグヌス・リンドベリ Magnus Lindberg (b.1958) の〈Away (離れて)〉(Ondine ODE866-2)。あるいは、サラステが指揮するフィンランド放送交響楽団との共演で録音した、ユッカ・ティエンスー Jukka Tiensuu (b.1948) の〈Puro (純粋な)〉とヨウニ・カイパイネン Jouni Kaipainen (b.1956) の〈Carpe diem!)(Ondine ODE778-2)。この2曲のクラリネット協奏曲は、どちらもクリークが初演した作品です。

 こうした演奏家たちがどういうプロセスで演奏をつくりあげていくのか、とても興味があります。でも、素人相手に口で簡単に説明できるものでもないでしょう。たしかなのは、現代の音楽といっしょに育った演奏家は、生まれたばかりの作品だろうと古典やロマンティシズムの作品だろうと、音楽に変わりはないと感じているのではないかということです。まず楽譜があり、そこに書いてあることを音にする。そのうちに、なにかが響いてくる。演奏者と作曲者の対話がすすむにつれ、演奏者は心を動かされていることを知る。知的な作業をとおして湧いてくる、深い感情。あとは、それがどう聴き手に伝わるかです。

 以前、あるピアニストから、おもしろい話を聞きました。はじめての曲を演奏するときには、楽譜に書いてある音符をすべて、まず、フォルテで弾いてみるのだそうです。奏法に関する指示は別にして、すべての指定は無視してひたすら音符を音にするので、クレッシェンドもディミヌエンドもしない。きわめて単純な作業です。これをくりかえしている間に、少しずつ音楽の形が作られていきます。そして、ロマンティックな音楽であれば、テンポを揺らすのかインテンポで弾くのかといった組立が、自分の感情の動きにあわせて行われます。こういうときには、演奏様式の伝統などは、ほとんど意味がありません。当然のことでしょう。信じられるのは、ひたすら自分の感覚ということになります。

 こうした音楽づくりを行うには、正確な音程とアーティキュレーションとリズムは当然のこととして、確実な演奏技術が求められます。テンポに対する柔軟な感覚も重要かもしれません。あらゆる意味で、“適当に”ということは通用しないでしょうね。ロマンティックな音楽だからムードでごまかせばいいとでもいった妥協をすれば、演奏家が作品から感じとったものが聴き手には伝わることはありません。

 さらに必要なのが、きめが細かく純度の高い響きです。それも、単に透明な音であればいいということではなく、ぬくもりが感じられねばならないでしょう。また、どんなに激しい感情を表現しようと、汚れた音は聞き苦しい。よほど高度なテクニックがなければ、こういう音作りはできないので、演奏家にとっては試練です。このことは、弦や木管にかぎらず、あらゆる楽器についていえるはずです。ピアノも例外ではありません。単に鍵盤をたたけばいいと誤解されがちですが、ある調律師が、「自分で音を作って弾いてくれるピアニストと仕事をするくらい、幸せなことはない」と語ったことがあります。ピアノと格闘するかのような演奏がいかに貧しいものか。思い当たることがありませんか?

 もっとさまざまな、複雑な要素もあるはずですが、だいたいそんなところではないかと想像します。こういった知的で感覚的な作業から生まれた音楽が、単にメカニックな楽しみだけに終始すると、これはおもしろくもなんともありません。かつて即物的な演奏がもてはやされた時代があります。結局、あれはロマン過剰の演奏 −− テーゼ(定立) −− に対するアンチテーゼ(反定立)だったのではないか。今は、ジンテーゼ(総合)の段階を迎えたのではないか −− 少なくとも、彼らと同じ時代の空気を吸うわれわれにとっては。そんな気がします。そして、そうした音楽が聴き手のこころをとらえていくことになれば、古典もロマンも、今にふさわしい衣裳をまとってこの時代に息づくことができるのではないでしょうか。

 こうした演奏スタイルを嫌う人は、確かに存在するでしょう。さきほどのハーゲン四重奏団のモーツァルトについても、「これはモーツァルトじゃない!」という声があります。ヴィブラートは、彼らがほんとうに必要と考えたときだけ。わざとらしい唐突なディミヌエンドも、しなを作りでもするようなポルタメントもありません。「こんな表現があるものか!」。ウィーン・スタイルのモーツァルトを正統と信じていれば、そう言いたくなるのは無理からぬところ。同情はします。でも、この“ウィーン”というのもくせもので、ウィーンという自負が強すぎたのか何なのか、現代音楽を出発点にしながらも妙な方向に行ってしまったカルテットもあるようなので、よほどの魔力 −− それとも、ビジネスチャンス? −− があるものなのかもしれません。

 ハーゲン四重奏団は、そもそも、クルタークやリゲディ、ルトスワフスキやヴェーベルン、あるいはバルトークやヤナーチェクらの作品に接するのと同じ視点でモーツァルトやシューマンを見ています。かりに“モーツァルトらしい”モーツァルトというものがあったにしても、ハーゲン四重奏団にそれを求めるのがお門違いというもの。「おいらたちは、おいらたちの音楽をやるだけさ」と言うかどうかはわかりませんが、まあ、そんなところでしょう。彼らが生む瑞々しい音楽。それが聴き手の心を揺さぶるとしたら、それ以上に何が必要でしょう?

 ハーゲン四重奏団とは必ずしもまったく同じスタンスをとっているということでもありませんが、これも現代感覚の演奏家による、わたしの好きなディスクがあります。

 スウェーデンのピアニスト、ニクラス・シヴェレーヴがペッテション=ベリエルのピアノ小品集〈フローセの花 (Frösöblomster)〉全3巻(21曲)を演奏したディスクです (Naxos 8.554343)。シヴェレーヴ Niklas Sivelöv (b.1968) は作曲家でもあります。1998年のピアノ協奏曲第1番は初演時から高く評価され、録音ではテューバソナタを聴くことができます (Simax PSC1101)。伝統的な技法に基づいてはいても、響きに対する感覚はやはり現代の作曲家です。〈フローセの花〉というロマンティックな音楽を、音色と響きを意識しつつ現代の感性で弾いた、清潔感のある演奏はおおきな魅力です。

 スウェーデンの作曲家ヴィルヘルム・ペッテション=ベリエル Wilhelm Peterson-Berger (1867-1942) は、音楽批評家、王立オペラのプロデューサーとしても活躍しました。王立音楽アカデミーの会員にも選ばれるなど、スウェーデン音楽界では知られた存在でしたが、作曲家としては、アルヴェーン Hugo Alfvén (1872-1960) やステーンハンマル Wilhelm Stenhammar (1871-1927) の陰に隠れがちだったといわれます。作品自体に問題があったというよりも、彼が新聞に寄せた毒舌の批評が多くの作曲家たちの不興を買い、そのことが敵を作ったのではないかと考えられています。アッテルベリの音楽に対する評価などは、不当だとばかりも言えないのですが…‥。

 しかし、彼が作曲したピアノのための小品や歌曲や合唱曲は一般の人々の間で人気を集め、なかでも、1896年に第1巻が出版されたピアノ曲集〈フローセの花)は、没後50年以上を経た現在でも人気が衰えていません。管弦楽やその他の楽器のための編曲が数多く行われていることも、そのひとつの表れでしょう。

 曲名にあるフローセ Frösö は、スウェーデン北部のノルウェーと国境を接するイェムトランド Jämtland 地方にあるストゥールショーン湖 Storsjön −− スウェーデン語で “大きな湖” の意 −− に浮かぶ島の名前です。ペッテション=ベリエルはイェムトランドを心から愛し、フローセ島に夏の別荘を建てます(第3巻の第1曲《前奏曲 (Förspel)》は、大工たちの仕事ぶりを眺めていた作曲者の気持ちを表現した音楽とも言われます)。

 別荘は1914年に完成。彼はこの家をソンマルハーゲン (Sommarhagen) −−“夏の牧場”、あるいは “夏の隠れ場”−− と名付けます。この家に入る時の喜び勇んだ気持を、第3巻の第2曲《ソンマルハーゲン入場 (Intåg i Sommarhagen)》の堂々とした音楽が表現します。ペッテション=ベリエルが最初は別荘として使っていた家にストックホルムから移り住んだのが1930年。そして1942年に亡くなるまで、彼はソンマルハーゲンを本宅としてこの地にとどまります。

 〈フローセの花)のペッテション=ベリエルは、交響曲を書いたときの彼よりも、感じたことを素直に音楽にしています。表情ゆたかなメロディ、新しさを感じさせるハーモニー、しなやかなリズム。すべてが自然です。「夏になった。フローセに帰る!」と言ったかどうかは知りませんが、《帰還 (Rentrée)》の弾むリズムが浮き立つ気持を感じさせます(なぜ、この曲のタイトルだけがフランス語なのでしょうか?)。緑の牧場で口ずさむ《夏の歌 (Sommarsång)》。ソンマルハーゲンのテニスコートで、作曲者に負けずテニスに夢中だったといわれる国王のグスタフ五世とのプレーに興じる様子を彷彿とさせる《ローンテニス (Lawn Tennis)》。つづく、《ばらに寄せて (Till rosorna)》、《お祝い (Gratulation)》、《フローセの教会で (Vid Frösö kyrka)》も、描写的な音楽。《たそがれに (I skymningen)》で少しばかりしっとりした気分を味わってから、夏の別荘を離れる寂しい気持を《あいさつ (Hälsning)》で。第1巻は、まるで夏の日記帳のような音楽です。

 第1巻は大きな反響をよび、その4年後、第2巻が発表されます。この曲集の特色は、流れるような旋律は健在だとしても、元気のよさが目立った前の巻のくらべ、しっとりとした情緒が勝っていることでしょうか。穏やかに照らす日の光を愛でる《太陽にあいさつを (Solhälsning)》。やさしい旋律が心をとらえる、愛すべき《イェムトランド (Jämtland)》。《はるか森の中に (Långt bort i skogarna)》では、羊飼いの角笛が聞こえるともいわれます。晩夏の気分を感じさせる《聖ラウレンティウスの祭で (Vid Larsmess')》。思わず口ずさみたくなるようなメロディが印象的です。そして、秋が訪れるにつれて嵐の予感も。風に吹かれて、ストゥールショーン湖の《岸にむかう波 (Vågor mot straden)》。そして、《思い出 (Minnen)》とともに、作曲者はフローセにしばしの別れを告げます。

 第3巻《ピアノのためのユモレスクと牧歌 (Humouresker och idyller för piano)》が発表されたのは1914年。〈フローセの花〉の構成は、グリーグの抒情小曲集をモデルにしたとも言われます。しかし、作品の雰囲気はむしろロベルト・シューマンのピアノ曲集に近いのではないかと思います。そして、強引を承知でたとえるなら、第1巻が〈蝶々〉や〈子供の情景〉として、第3巻は〈森の情景〉の世界と言えばいいかもしれません。情景を描写している音楽のように見えながら、作曲者の内面の世界が感じられるためです。そのことをもっとも強く感じさせるのが、《夕陽にうつる景色 (Landskap i aftonsol)》。ゲルマンの文化とドイツ音楽を好んだペッテション=ベリエルにはめずらしく、ソンマルハーゲンから眺めるイェムトランドの景色が、フランス印象主義の趣をもった音楽になっているような気がします。〈フローセの花)から個人的にもっとも好きな1曲を、となると、やや目移りしながらも、この曲を選ぶことになるでしょう。

 《庶民のユーモア (Folkhumor)》は軽やかなステップのポルカ。野生の森のどこからともなく、静かに作曲者の耳にとどく《荒野の呼び声 (Vildmarken lockar)》。《ポプラの下で (Under asparna)》は、かつてのように、ふたたびイェムトランドの自然を散策するペッテション=ベリエルが。そして、イェムトランドの思い出のすべてを回想するかのような、《何年もたってから (Om många år)》。寂しさと懐かしさが同居する音楽です。

 この曲集は、それほど複雑なピアノの技巧を要求していません。そのためか、この曲集を耳にすると、自分でもなんとなく弾けそうだという気になるのでしょう。プロだけでなく、ピアノをたしなむアマチュアからも楽譜についての問い合わせが何度もありました。しかし、ペッテション=ベリエルが、名人芸をひけらかすだけだったり表面的に美しいだけだったりする音楽を嫌っていたことも背景にあって、〈フローセの花)は見かけよりもむずかしい作品です。また、当時の人にはめずらしく、彼が演奏者に客観性を求めたために、ピアニストが音楽に没頭しすぎると情緒過多の音楽になりかねないような罠が、随所に見られます。

 〈フローセの花)の洗練された旋律をどう弾くか? ほんとうに大変なことです。指が動くといったこととは違う次元の演奏技術が求められ、ピアニストにとっては大きな挑戦です。しなやかな感性と感情の抑制力も必要でしょう。そういった意味で、シヴェレーヴは作曲者の“期待”に見事にこたえている、とわたしは考えます。さわやかな魅力にあふれた音楽。ペッテション=ベリエルが書いた音楽の多彩な魅力が素直に伝わってきます。

 この曲集には、小川典子による全曲録音もあります (BIS CD925)。ジャケット写真に似て −− 典子さん、かわいい! −− とてもきれいな演奏です。残念なのは、速いパッセージでは音の粒がそろっていて美しいものの、全体にピアノの響きが浅く、音楽の作り方も “ピアノ弾き” の発想の域を出ていないような感じがすること。体全体を使わず、指だけで弾く奏法のように聞こえます。旋律の歌わせ方も、やや単調。全曲を通して聴くと、ちょっと飽きちゃうかな?というところでしょう。

 シヴェレーヴの演奏とはべつに、もうひとり、〈フローセの花)の全曲を演奏してほしいピアニストがいます。現代音楽をこよなく愛する、ロマンティスト。豊かな音でピアノを響かせる奏法を身につけているので、フォルテッシモが騒々しくなく、ピアニッシモは、繊細でありながら少しも華奢な感じがしない。彼が弾くピアノの深い響きと、そこから生まれる音楽は、心を虜にしてしまいます。いつ実現するか。一日千秋の思い? たしか、そんな言い方がありますね。使うのは、はじめてですが。

 

Naxos 8.554343
ヴィルヘルム・ペッテション=ベリエル (1867-1942) ピアノ曲集〈フローセの花)(全3巻)
 第1巻《8つのメロディ (8 Melodier)》 作品16
  帰還 (Rentrée) 夏の歌 (Sommarsång) ローンテニス (Lawn tennis)
  ばらに寄せて (Till rosorna) お祝い (Gratulation) フローセの教会で (Vid Frösö kyrka)
  たそがれに (I skymningen) あいさつ (Hälsning)
 第2巻《抒情アルバム (Lyrisches Album)
  太陽にあいさつを (Solhelsning) イェムトランド (Jämtland)
  はるか森の中に (Långt bort i skogarna) 聖ラウレンティウスの祭で (Vid Larsmess')
  岸にむかう波 (Vågor mot stranden) 思い出 (Minnen)
 第3巻《ピアノのためのユモレスクと牧歌 (Humoresker och idyller)
  前奏曲 (Förspel) ソンマルハーゲン入場 (Intåg i Sommarhagen)
  夕陽にうつる景色 (Landskap i aftonsol) 庶民のユーモア (Folkhumor)
  荒野の呼び声 (Vildmarken lockar) ポプラの下で (Under asparna)
  何年もたってから (Om många år)
  ニクラス・シヴェレーヴ (ピアノ)

(15.12.2001. TT)


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