トルルス・モルクのハイドン

 

 マイ・ブーム。"boom" の元の意味からするとどうも変な言い方ですが、ひとりで “盛り上がっている” という感じは出ています。それほど本気で使わなければ、和製英語としてはほほえましいほうでしょうか。“健康” を売るために、“ヘルス” と言わず、(和製でこそないものの) アメリカ人もあまり使わない “ウェルネス”(wellness) を持ち出すよりはずっと健全。“ヘルス” では、何かまずいことがあるのでしょうか?

 マイ・ブームというものがあるならば、“アウア・ブーム” もあります。小さなグループの中だけで人気があること。ただ、"my" を複数形 "our" に変えて “アウア・ブーム” と言うかとなると、言わないでしょう。日本語になってしまった “マイ” と違って、どうも日本語に馴染みません。"hour" と同じ発音だからと、“アワー・ブーム” と表記するのも問題でしょう。なんとなく時間限定のような感じがします。

 どう呼ぶかはともかく、去年あたりから仲間うちで何かとヨーゼフ・ハイドンが話題にのぼるようになりました。“びっくりシンフォニー”−− すごい名前! −− のハイドン。広響の定期演奏会で井上道義が指揮した《朝》、《昼》、《夕べ》の3曲の交響曲の生き生きとした、楽しげな演奏がきっかけでした。しばらく聴いていなかった《太陽四重奏曲》のセットや《ひばり》と《騎士》のディスクを取り出したり、タイミングよく届いたフィンランドの雑誌 "Classica" の付録CDに収められた第92番《オックスフォード》と第99番の交響曲 −− パーヴォ・ベリルンド指揮フィンランド室内管弦楽団の演奏 (Ondine ODE801-2 と同じ音源) −− を面白がったり。シベリウス協会のメンバーのひとりは、ハーゲン四重奏団の《太陽四重奏曲》が気に入り、すぐにゲット。知人のトランペット奏者が “古典の勉強の一環として” ハイドンのピアノソナタ全曲に挑戦すると言い出したのには驚きました。最近では、シベリウス協会の別のメンバーが、Brilliant Classics のイヴァン・フィッシャーによる交響曲全集をねらっています。この間、ハーゲン四重奏団のモーツァルトの《ハイドン・セット》全曲がリリースされて、楽しませてくれていることは、あまり関係ないでしょうが。

 ハイドンの音楽がなぜ面白くなったのか? このことはよくわかりません。ただ、興味をひかれることと言えば、先駆者のひとりとして新しい音楽に挑戦しながら、どことなくのびやかで屈託がないこと。そして、情緒にひたりきることのない、知と情のバランスのとれたスマートさ。初期と“疾風怒濤”の時代、そしてその後の時代の作品では様相がかわるものの、こういった特色は一貫しているのではないかという気がしています。

 そのハイドンも、ドイツ=オーストリア系の音楽とかなり疎遠になったこともあって、手元にあるCDはごくわずか。そのなかで、もっとも大切にしているディスクのひとつが、ノルウェーのチェリスト、トルルス・モルク Truls Mørk (b.1961) がアイオナ・ブラウン指揮ノルウェー室内管弦楽団と共演したハ長調とニ長調のチェロ協奏曲 (Virgin Classics VC5 45014-2)。これは、CDを数多く持っているとか持っていないとか言うことと関係なく、何というか、素晴らしいハイドンのディスクです。

 その魅力のひとつは、まず、モルクのチェロの響き。手触りのいい、深みのある音色は強音でも弱音でも変わらず、チェロらしい響きを一貫して楽しませてくれます。これは、1723年製ドメニコ・モンタニャーナ Domenico Montagnana という楽器の持ち味というだけでなく、モルクが、イメージしたことを自在に音にすることのできる演奏技術をもっているためでしょう。話に聞くところでは、190センチを超す大男だとか。そのことで生まれる余裕のようなもの。体格にめぐまれるということは、特にチェロの場合は大事なことのようです。

 もうひとつの魅力はトルルス・モルクの演奏の爽やかさです。ハ長調の曲でソロが入ってきたとたん、このことが感じられ、2曲の協奏曲を静かにとおりぬけていきます。これは、チェロの音色がすがすがしいというだけでなく、音楽をクラシシズムの中にとどめた結果生まれた抒情のおかげと言えるような気がします。この2曲、とりわけ特にハ長調の協奏曲には息の長い旋律が多く、朗々と歌い上げたい奏者にとっては誘惑いっぱいの曲です。そこのところをモルクは節度を忘れず演奏しているために、音楽がロマンティックに響きすぎません。こういったスタイルで演奏される古典の、なんと新鮮に響くこと!

 それにしてもハイドンは奥深い音楽を書いたものです。ハ長調にくらべて内面的な色合いの濃いニ長調。音楽の内からわき上がってくる響きが心をうちます。

 このディスクの魅力として、アイオナ・ブラウン指揮のノルウェー室内管弦楽団の演奏も忘れられません。旋律はすがすがしく歌い、リズムは弾む。そして、透明な響きのハーモニーは北欧の空気を感じさせる。モルクとともに呼吸しながら、ハ長調の冒頭からニ長調の終曲の舞曲まで、ダイナミックさと繊細さをあわせもった演奏には、ため息をついてしまいます。ホーヴァル・ギムセ Håvard Gimse、ヴェービョルン・アンヴィーク Vebjørn Anvik、ラーシュ・アネシュ・トムテル Lars Anders Tomter と共演したモーツァルトの協奏曲 (Chandos CHAN9695) など素敵な録音の多い彼ら。音楽を演奏することの喜びがあふれんばかりです。

 このディスクの音源に使われているのはノルウェー Simax の録音 (Simax PSC1078)。契約の関係で Virgin Classics にライセンス供与され、ノルウェー以外の地域では Virgin レーベルでリリースされました。録音を担当したのはノルウェーのベテラン・エンジニア、アーネ・アクセルベルグ Arne Akselberg。モルクの録音の他、 スヴェンセンの弦楽オーケストラのための作品集 (Smax PSC1097) やチリンギリアン四重奏団のグリーグ (hyperion CDA67117) など、奥行感のある美しい響きの録音で定評があります。1991年9月25日から28日にかけてオスロのウラニエンボルグ教会で行われおこなわれた録音は、残響の多い教会内の響きが適度にとらえられています。この暖かみのある音は魅力です。

 モルクが聴かせる音楽。チェロという楽器が響かせているとわかっていても、楽器という存在を超えてしまっているような気さえします。これはいったい何でしょうか? モルクの演奏について、“自然の息吹を感じさせるさわやかな風。それも、フィヨルドを渡る凛とした風というより、山にひろがる牧場から吹いてくる香しい風”と言った人がいます。そういった自然がモルクの中で息づいている。そのおおらかさと緻密さがハイドンの音楽と相まって、何度もなんども聴きたくなるような、魅力のつきない演奏となっています。

 もうひとつ。モルクという音楽家は、自分自身が音楽に感動したことがあり、その気持ちを持ちつづけつつ演奏しているのではないかということです。演奏家のなかには、他人の演奏はできるだけ聴かないという人がいます。「音楽は聴くものではなく、演奏するものだ」と、かつて言った指揮者もいたとか。他人の演奏を聴かず楽譜から読みとるようにと指導する教師が多いのも、聴いた演奏がすべてだとか、いろいろな演奏をつないだにすぎない演奏を自分の音楽だと思いこむ生徒がいることからしかたがないのかもしれません。でも、“演奏を聴く”ことの本来の意味が忘れられ、演奏家自身が音楽から心に触れるものを感じたことがないとすれば、演奏することにより何を聴き手に伝えるのでしょう? 作曲者が作品に託した思いが演奏者を通して聴き手にとどき、この幸せなつながりから生まれるものが人の心を動かす。人間的な温もりのあるモルクの演奏を聴いて、このことをとても強く感じます。

Simax PSC1078 (Virgin Classics VC5 45014-2) ヨーゼフ・ハイドン (1732-1809)
 チェロ協奏曲第1番 ハ長調 Hob.VIIb/1 チェロ協奏曲第2番 ニ長調 Hob.VIIb/2
  トルルス・モルク (チェロ) ノルウェー室内管弦楽団 アイオナ・ブラウン (指揮)


その他の代表的なモルクのディスク

Virgin Classics VC5 45505-2 エドヴァルド・グリーグ (1843-1907)
 チェロソナタ イ短調 作品36 弦楽四重奏曲 ト短調 作品27
  トルルス・モルク (チェロ) ホーヴァル・ギムセ (ピアノ) ソルヴェ・シーゲルラン (ヴァイオリン)
  アトレ・スポーンベルグ (ヴァイオリン) ラーシュ・アネシュ・トムテル (ヴィオラ)

Virgin Classics VC5 45356-2
ベンジャミン・ブリテン (1913-1976) チェロ協奏曲 作品68
エドワード・エルガー (1857-1934) チェロ協奏曲 ホ短調 作品85
  トルルス・モルク (チェロ) バーミンガム市交響楽団 サイモン・ラトル (指揮)

Simax PSC1023 無伴奏チェロのための作品集 
アーネ・ヌールハイム (b.1931) Clamavi (呼ぶ) (1980)
ジョージ・クラム (b.1929) 無伴奏チェロソナタ (1955)
イングヴァル・リードホルム (b.1921) ラウディによる幻想曲 (Fantasia sopra Laudi) (1977)
ゾルターン・コダーイ (1882-1967) 無伴奏チェロソナタ 作品8
  トルルス・モルク (チェロ)

Simax PSC1058
セザール・フランク (1822-1890)(ジュール・デルサール編) ヴァイオリンソナタ イ長調 (1886)
エルネスト・ショーソン (1855-1899) 小品(チェロとピアノのための) 作品39
クロード・ドビュッシー (1862-1918) チェロソナタ (1915)
フランシス・プーランク (1899-1963) チェロソナタ (1940-48 rev.1953)
  トルルス・モルク(チェロ) ホーコン・アウストボー(ピアノ)

Simax PSC1063 
フレデリク・ショパン (1810-1849) チェロソナタ ト短調 作品65
ロベルト・シューマン (1810-1856)
 アダージョとアレグロ 変イ長調 作品70 民謡風の5つの小品集 作品102 幻想小曲集 作品73
  トルルス・モルク (チェロ) ライフ・ウーヴェ・アンスネス (ピアノ)

Official website: http://www.trulsmork.com/

 

ノルウェー室内管弦楽団のディスクから

Chandos CHAN9695 WA・モーツァルト (1756-1791)
 2台のピアノのための協奏曲 (第10番) 変ホ長調 K365/316a
 ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K364/320d
  ホーヴァル・ギムセ (ピアノ) ヴェービョルン・アンヴィーク (ピアノ) 
  ラーシュ・アネシュ・トムテル (ヴィオラ)
  ノルウェー室内管弦楽団 アイオナ・ブラウン (ヴァイオリン、指揮)

Chandos CHAN9616 
アルノルト・シェーンベルク (1874-1951) 浄められた夜 作品4 (弦楽合奏版)
フランツ・シューベルト (1797-1828) (グスタフ・マーラー 編曲) 弦楽四重奏曲第14番 ニ短調 D810
  ノルウェー室内管弦楽団 アイオナ・ブラウン (指揮)

Omega Classics OCD1003 WA・モーツァルト (1756-1791)
 ピアノ協奏曲第9番 変ホ長調 K291 ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K488
  ブリギッテ・マイヤー (ピアノ) ノルウェー室内管弦楽団 アイオナ・ブラウン (指揮)  廃盤

Omega Classics OCD1004 W・A・モーツァルト (1756-1791) 交響曲第29番 イ長調 K201/186a
 セレナード第13番 ト長調 K525 《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》
 ディヴェルティメント ニ長調 K136/125a
  ノルウェー室内管弦楽団 アイオナ・ブラウン (指揮)  廃盤

(23.3.2002. TT)


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